末っ子はつらいよ
それは俺が帰宅した時には既に始まっていた。
ただいまー、と玄関の扉を開けてすぐ目に入るのは机の前に鎮座する二代目の姿。一方ソファの上では初代が雑誌をめくっている、いつもの光景だ。だから俺もいつものように初代の隣に腰を下ろして一息つく。
「……」
「……」
「……」
ここで俺は言い知れぬ空気に気がついた。この家こんなに静かだったっけ?いや、音があるとか無いとかじゃなくて、まるで凍り付いたかのように空気が動かないこの感じ。
ちらりと横を見れば、いつも俺と適当なお喋りを繰り広げる初代が口を真一文字に結んだ険しい顔をして手元の雑誌を睨んでいる。ひょっとしてこの張り詰めた雰囲気は初代のご機嫌か?と視線を二代目の方へ向ければ、あろうことか常に涼しいポーカーフェイスが売りの二代目も初代と全く同じ顔をしていた。
「…何、喧嘩?」
空気を読まずに切り出した俺の声がやけに通る。すぐ横でパンと雑誌を閉じる音に少しばかり恐怖を覚えながらも振り向いた先には、ふん、と鼻を鳴らす初代がいた。
「知らねえな。それより…」
彼はにこりと笑って親しげに俺と肩を組む。
「この前、なかなか美味いストロベリーサンデー出す店見つけたんだ。ちょっと遠いけど行くか?初回限定で奢ってやるぜ」
「本当か?さっすが初代!」
どうせ暇だし、奢りと聞いたら尚更ストサンハンターとしては興味深い話に乗ろうと俺が立ち上がりかけたその時、声は別の方向から飛んできた。
「おやつなら冷凍庫にあるぞ。要らないなら俺が貰うが」
…要らないわけがない。
「え!?いや食う食う!」
俺はぶんぶんと首を振り、初代にやっぱりまた今度なと言い置いてダッシュで冷蔵庫に向かった。
しかし、ストロベリーアイスを手にして戻り、食べ始めた時になって俺は自身の過ちに気がつく。隣と向こうからはピリピリとした空気が漂い、もちろん両者の会話などない。その間で俺は食べる羽目になったが、あからさまに席を立つのも躊躇われる、というよりそうしようとするとさっきのように二人から絡まれそうだ。やっぱり初代と一緒に出かけておくべきだったか…と沈黙の空気の中で肩を狭くしながら食べていたら、ふと横からの視線を感じ、見れば初代が相変わらずの鋭い目で「一口寄越せ」と言っている。先程の誘いを断った借りもあるから俺は大人しくスプーンで一口差し出したが、背後で殺気に似た剣呑な気配が膨らんだのを感じずにはいられなかった。
幸いにして俺に剣や銃弾が飛んでくることはなかったが、二人の雰囲気は険悪そのものだ。いつもあんなに仲が良いくせに一体どんな痴話喧嘩をしたんだか知らないけど、こんな時にも当然の如く仕事は来ず二人とも家にいるのだから質が悪い。
まさかこのまま喧嘩別れするようなタマじゃないよな…なんて他人事ながら気にしつつ初代と他愛のない話をしていたら、またもや二代目が俺を呼んだ。無口な向こうからこれほど話しかけてくる日なんて滅多にない。
「暇だろう。最近ろくに狩っていないようだし、稽古つけてやるぞ」
言っちゃ失礼だが気味が悪いほど世話を焼く二代目に思わず「ハイ」と返事をする俺。しかしその肩を叩いて今度は初代が言う。
「なんだ、それなら俺が相手してやるよ。そこのアレより教えるのは上手いからな」
「……」
俺を挟んで今にもバチバチと火花が散りそうな空気である。
これは一体何なんだ?さっきから二人とも俺を盾に喧嘩しやがって、俺は生け贄か何かか?
「むわーーーーーー!!」
「!?」
突然奇声を上げた俺を二人が目を丸くして見た。
「よし分かった初代、よろしくお願いします!」
「お…おう、よしよし」
面食らいつつも頷く初代の背中を強引に押していって外に引っ張り出すと、
「あっ!俺ちょっとトイレ行ってくる!」
と言い残してすぐに俺だけ家の中へ戻る。そして一息吐いて、仏頂面で座っている二代目の元へつかつかと歩み寄った。どちらかというと初代よりもまず二代目からのルートのほうが解決に近い気がする。
「で、何があったんだよ」
「…何が」
「初代と喧嘩したんだろ?俺を巻き込むのは勘弁してくれよ」
はあ、とデカイ溜息をつく俺をじっと見ていた二代目もやがて小さな溜息を返した。
「…もしも俺が浮気をしたらどうする」
「え?」
「そう訊いた。あいつに」
「なるほど。で?」
「…『勝手にすれば』」
「……で?」
「そんなことを言っておいて何故か向こうが怒って口を利かなくなった」
「……」
はあ?と言いたくなるところを堪えて俺は閉口する。これは思っていたより大分くだらない。あまりにくだらない。
「本当にそれだけ?」
「そうだ」
「ふーん…で二代目はなんで怒ってるんだよ」
すると二代目は心外とばかりにムッとした表情を見せる。
「『勝手にしろ』は薄情だろう」
そっちか!?初代の理不尽な怒り方に腹を立ててるんじゃないのかよ。俺は開いた口が塞がらないままなんとか言葉を絞り出した。
「それはまあ…でもそれ初代の意地っ張りなんじゃないのか?今に始まったことじゃないんだろ」
「それはそうだが…」
二代目の男心としては焼き餅焼いて欲しかったんだろうが、初代のある意味捻くれた性格が上を行ったということらしい。しかし初代の強情さなんて二代目が一番よく分かっているはずなのだが。
「口ではどうでもいいなんて言ってるけど態度が怒ってるって事は、あれが初代の本音なんだよな。たぶん」
「……」
ようやく冷静になったのか、二代目の雰囲気が少し和らいだ。初代に可愛げがないのは確かだけど、二代目もショックだったとはいえこんなにムキになるなんて珍しいものだ。この人も仙人ではないらしい。
とりあえずこっちは原因ではなさそうだし、向こうをどうにかすればあとは二代目が丸く収めてくれるだろう。俺自身の平和のためにも一肌脱いでやるか。
何か思案している様子の二代目に背を向けて俺は初代が待つ外へ向かう。が、その前に一つだけ訊いてみた。
「なあ、もし初代が浮気したらどうする?」
「するわけないだろう」
即答で前提から否定された挙げ句に殺気を放つ目で凄まれ、俺はそそくさと謝って扉へ向かった。
さてこっちは…と玄関の扉を少し開けて外の様子を見てみる。そこには両手にイフリートを装備した初代がマジな目をして素振りをしていた。
「…こわい」
「おう、遅いぞ」
気付いた初代がやる気満々の不敵な笑みを向ける。このまま相手をさせられたら鬱憤をぶつけられそうだから、俺はすぐに本題に入ることにする。玄関の階段に座って無気力の意思を示しつつ、最大限の演技力でさも心配しているような口ぶりで切り出した。
「なあ、二代目と何を喧嘩してるんだよ」
「あ?別に何もねえよ」
「そう願いたいけど、あんなに気まずい空気は悪魔でも逃げ出すぜ」
「……」
うっ、と口ごもるあたり取り付く島はありそうだ。事の次第は二代目から聞いてはいるものの、俺は公平に一から尋ねる。
「何があったんだ?二代目に無理矢理変なことでもされたとか?」
「んなわけねえだろ」
そんなことになったらこれで済んじゃいねえよと力強くイフリートを燃え盛らせながら否定するので、二代目も先は長いなあと少しばかり同情した。そんな俺が真面目に考えているように見えてくれたのか、初代は溜息をついて静かに話し始める。
「お前が気にすることじゃねえよ」
「いや気になるだろあの空気」
「…悪かったよ。ただあいつが…はあ。浮気したらどうするとかなんとか、言いやがって」
語尾が多少荒かったがとりあえず何度聞いてもどうでもいい話である。とまあそんなことは顔に出さないよう気をつけながら、俺は引き続き証言を取る。
「それで?」
「無性に腹が立った」
「わお、通り魔の台詞」
「あ?」
「それで初代はなんて答えたんだよ」
「これは取り調べか?」
「って言ったのか?」
「違えよ馬鹿、今のはお前に言ったんだ。俺は…『勝手にしろ』って言ったらあいつが口きかなくなった」
「はあ…」
まずは二人の話が一致したからどちらも嘘はなさそうだ。いよいよキューピッドたる俺の出番である。
「勝手にしろなんて本気で言ったわけじゃないんだろ?」
「さあな。わざわざ浮気すること考えてる奴と違って俺は現実的に生きてるからな」
相変わらず皮肉屋で手強い相手だが、曲がりなりにも俺も同じダンテとして負けられない。俺の平穏が掛かっている。
「初代に突き放されてショックだったんじゃないの、二代目」
「訊いてきたのはあいつだぞ」
「それはそうだけどさ、初代の気持ち確かめたかったんだって。分かるだろ?焼き餅焼いて欲しいとかさ…初代に期待したのが二代目の過ちだったかもしれないけど」
「…うるせえ」
ムッとはしているが否定はしないらしい。強情でも救いなのは初代自身が己の性格を自覚していることで、いつもなら二代目が懐柔してくれるんだろうが、今回のように衝突した時でもある程度自省する気は初代も持っている。ひょっとしたら俺が出なくてもいずれ初代から落ち着いて仲直りしたのかもしれないけど、それまで俺の身が保つ保証はどこにもないのだから仕方ない。自分の身は自分で守らなきゃいけないからな。
それに第三者に言われて改めて納得することもある。二代目も初代も大人だし、これくらいで俺の仕事も潮時でいいだろうと腰を上げた。ぽんぽんと尻を払いながら何気なく付け足す。
「まあ浮気って例は気に入らないのも分かる気がするけど」
「……」
とか言って正直よく分からないが嘘も方便、初代も腑に落ちてくれたのか腕のイフリートから放たれる炎はかなり落ち着いていた。なかなか優秀なバロメーターである。
「じゃあ俺ちょっと散歩してくる」
「おい、サボるのか?」
「二代目誘ってやれよ先生。たぶん待ってるだろうから」
俺のさりげないフォローに口を噤む初代の横を通り過ぎて、ふと足を止めた。
「あ、実際二代目が浮気したらどうすんの?」
「するわけねえだろ」
「…どこかで聞いたな…」
「あ?」
「いやいや、こっちの話」
後のことは二人次第だ。ひらひらと背中越しに手を振って俺はその場から退散した。
ぶらぶらして飯を食って帰ったのはそれから数時間後のことだ。俺の尽力があったんだからさすがにもう白黒ついているはずだと軽い足取りで家に向かう。遠目からも部屋から漏れる明かりとネオンサインで住人の存在が分かり、入り口の前まで来れば中から笑い声も聞こえてきた。
「ただいまー…」
様子を窺いながらドアを開ける。そこには、ソファに並んでというより一部重なるほどくっついて座った二代目と初代が楽しそうに喋っていて、俺の存在にはまるで気付いていないようだった。
「…あのー」
もう一度声をかけてみるが二人はいちゃいちゃするばかりでまるで無視。これはひょっとしてわざとか?視線は寄越さなくても耳は聞こえているはず、というかこっち側を向いている二代目が気付いていないわけがない。
若干イラッとしたがどうやら仲直りはしたみたいだし、今はそっとしておいてやるか…とラブラブオーラを放つ一帯をスルーしようとした時、あろうことか見つめ合った二人が顔を寄せるという由々しき光景が目に入ったので、俺は瞬時に「おいこら!」と叫びながら割り込んで思いっきり引き離してやった。そしてきょとんとして俺を見上げる破廉恥な奴らに睨みをきかせる。
「さてお二人さん、俺に言いたいことは?」
二代目と初代は顔を見合わせ、ああ、とようやく初代が反応した。
「おかえり。遅いから心配したぜ」
よく言うよ。というかそうじゃないだろ。しかもその間にも二代目が慈しむような熱い眼差しで初代の横顔を見つめていて、それに気付いた初代も照れたように彼に笑いかけ、二代目も微笑む。俺は思わず変な声が出た。
「うげえ…」
「失礼な奴だな」
言葉と裏腹に楽しそうに言う二代目を見てこりゃ駄目だと俺は悟った。二人ともいい歳して盛大にいちゃつきやがって、誰のおかげで仲直りできたんだか。こちとら仲介してやった報酬を貰いたいくらいだ。
「…まあいいや、あとで初代に約束のストサンを…」
「あ、悪い。さっきこいつと食いに行っちまってもう金ないんだ」
「……」
「ああ、美味かった。ありがとう」
「いや俺が悪かったんだし…いいって」
「次は俺が奢ってやるからな」
「いいのか?」
「もちろん」
「……」
その時は無理矢理にでもついて行ってやる、と俺は堅く心に誓ったのだった。