home sweet home
※まだ二人がくっついていない頃の話。
あいつがいきなり家を出て行ったのはちょうど一週間前のことだ。
出て行ったとは言っても別に喧嘩をしたわけではなく、そもそもまだ仲違いを起こすようなそんな関係ではなくて、そのへんの気持ちはお互い自覚していると思うが確かめ合ってはいない微妙な関係だと言っておこう。とにかく、異世界からやって来た若い頃の「俺」はもう随分この家に腰を落ち着けていたのだが、出て行くと言い出したのは急だった。
「いつまでもあんたの世話になっていられない」
まだしばらく元の世界には戻れそうにないからなと、そう言ってダンテは俺の遠回しな制止も聞かず、いや止められていることに気づいてなかっただけだと思うが、自分の事務所を構えるべく家を探しに行った。
赤の他人じゃあるまいし世話でもなんでもないと言っているのにまったく今更何を考えているんだか。どうせただの思いつきですぐに諦めて戻ってくるだろうと思っていたが、予想に反してダンテは一週間経っても帰ってこない。
溜息をつく回数が多いことに気がついたのはあいつが出て行って3日目くらいだ。ただ一人同居人がいなくなっただけで俺の日常がこんなに退屈だとは、これが日常だった時には知らなかった。広々と空いているソファを見ても座ろうと思わないし、ビリヤードをする気にもならない。ジュークボックスからお気に入りのうるさいロックが流れていても、何かが静かでつまらない。
さっぱり頭に入ってこない雑誌を閉じ、俺は立ち上がるとジュークボックスを止めてそのまま外へ出た。
駅に向かいながらポケットに突っ込んである持ち金を確かめる。チャリ、と軽い音に相応しい寂しい顔ぶれではあるが間に合わないほど目的地は遠くない。
家が決まったら連絡すると言っておいて全く音沙汰無いのがあいつらしくもあり、これじゃ女に振られるだろうなと同じ性格の我が身を省みつつも、出る際に隣町を見てくると言っていたから大体の行き先は分かっている。本来ならばどうせ拠点を分かつのであればなるべく遠いほうが仕事の分担という意味では効率がいいのだが、お互いそれは敢えて口には出さなかった。言ってしまえばあいつはそうするだろうから。
距離を置くと言いながらも手の届かぬところに行ってしまわないように、しかしそんな感傷的な気持ちに気づいていてもお互い言い出さない、今の俺たちの関係そのものだ。
ほんの数分電車に揺られたあと、俺はこの辺で一番ガラの悪い方向へ足を運んだ。住所なんて詳しいことは分からなくても同業者が集まりそうな一帯で訊けば、あんな目立つ色の男はすぐに見つかるはずだ。よく似た男が目の前にいることだしな。
案の定、すぐに居場所は分かった。裏通りを南へ進み、俺の事務所がある立地と似たようなその突き当たりに古めかしい建物が構えてある。当然まだ借りたばかりで看板も何もないが確かにここにいるはずだ。
鍵もかかっていない扉を開けると、部屋の中は殆ど何もなくがらんとしていた。あるのはおそらく元々ここにあったのだろう古びた机と椅子、隅に小さな棚と止まっている時計。左の方へ目をやればこれまた年代物のソファがぽつりと置いてあり、そこに寝っ転がっている男が驚いた顔をしてこちらを見ていた。
「…ライバルからの依頼はお断りだぜ」
一週間ぶりに聞く声に俺はつい口元を綻ばせる。起き上がったダンテが隣を空けてくれたので家のものより少し硬いそのソファに腰を下ろした。
「よくここが分かったな」
「お前は目立つからな。もう商売は始めたのか?」
尋ねるとダンテは肩を竦めてみせる。
「あんた便利屋ならここに電話引いてくれよ」
「悪いな、今日は休業日だ」
普段依頼を断る時と全く同じ返事をしてからとりあえず最近の首尾を聞いてみた。ダンテはこの辺について色々話を聞いて歩いていたこと、怪しい話があれば探ってみて小さい依頼を片付けたことなどを話してくれたが、世間話も一息ついたところで俺は本題を切り出した。
「それで…お前はあっちの家よりここのほうがいいか?」
「言ったろ、あんたに世話はかけねえよ」
「お前が俺にそんな気を遣う柄だとは知らなかったな」
「あ?失礼な奴だ。それとも俺がいないと寂しいのか?」
「…そうだな」
素直に本音を言ってしまえば、ダンテは一瞬だけ面食らったように俺の顔を見た。
「あんたこそそんな柄だったか?」
「そうらしい」
「よせよ。槍が降るぜ」
ふいと目を逸らしたダンテはそれきり黙ってしまった。彼からしてみれば自分で言い出して来た以上さっさとあの家に戻るとは言わないだろうが、はっきりと拒むこともしないのは彼自身迷っているからか、いずれにしろ意固地に断られなかったのは俺にとっては幸いで、どうしてもここにいたいわけではないのだろうと確信できた。
どちらかが言い出さなければ距離は縮まらない。平行線の関係を保ってきたが、今日ばかりは囲い込んで連れ帰るつもりだ。
「ここは退屈だろう」
「まあな」
「言っておくが俺は迷惑なんて微塵も思っていないぞ。たまに手はかかるが」
「む…」
「まあ聞け。それを含めて楽しませて貰っている。俺はな」
俺の言葉にダンテは納得したようなしていないような顔をしているが、「なんで今更」とは訊いてこない。俺と同じ気持ちならばこの一週間に感じたことも一緒のはずだ。いや、そうであってほしいという俺の希望もあるが。
「だがお前が嫌と言うなら…」
「んなわけねえだろ。…あんたといるのは楽しいよ」
後半がぶっきらぼうだったがいいことを聞けた。実際これも本音だろうが、世話になりたくないというのも本音なのだろう。あるいは何か思うところがあって俺と距離を置こうとしたのか彼の心の内は完全には分からないが、俺の本音はただひとつだ。
「さあ家に帰るぞ」
変に意地を張られる前に宣言して俺は立ち上がった。座ったまま見上げるダンテはどこか照れくさそうにがしがしと頭をかく。
「ったく、折角の俺の決意を…これじゃまるで俺は家出した子供かよ」
「ふむ。俺としては家を出た妻を説得している気分だが」
それなりの意味を含んだ告白をしてみたもののダンテは珍しく何も言い返さず流されてしまった。しかしその目が僅かに泳いでいたのを俺が見逃すわけがない。
この片思い同士の関係もそろそろ限界かもしれないな、と俺はそっぽを向いているダンテを見て思った。目の前の存在を愛おしいと認める以上、こいつのほうは性格からして素直に応えてくれないにしてももう自分を誤魔化せなくなるだろう。それを今回のことで随分気づかされ、均衡が揺らぎ始めたのを感じている。一応まだこの俺にもそういう感情はあって、俺たちがかなり特殊な関係とは言え好き合っているのならいつまでも恋人未満でいようとは思っていない。
そんな焦れたことを考えている俺はさておいて、座ったままだったダンテは小さく息を吐いてからようやく立ち上がる。だが俺に向けられたその顔にはいつもの皮肉めいた笑みが浮かべられていた。
「…このソファ、寝心地悪くてよ」
そう言って今度は人懐っこく笑って、
「やっぱり自分の家が一番だよな」
嬉しそうに言うものだから俺も嬉しくなって頷いた。
「ああ…そうだな」
この一週間空席だったあのソファは今日からまた役目を果たすだろう。きっとビリヤードは軽やかな音を響かせ、ジュークボックスから流れる音楽には鼻歌が加わって、我が家を彩ってくれるに違いない。さあ行こうと促す俺が彼の目にどんなふうに映ったのか、きっと感情を隠しもしない顔だっただろうがいっそそれでいいと思う。
外に出ると陽が沈み始めていて、大きく伸びをしながらいつもの店のいつものピザを食いたいと腹の虫を鳴らすダンテに笑いつつ、俺たちは家路を急いだ。
ちなみに貸したばかりですぐ出て行かれた古家の管理人は、身につけた宝飾品をジャラジャラいわせながら胡散臭い文句をつけて金の追加請求をしてきたものの、俺がしっかりと脅し…いや説得して事なきを得た。こういう時に迫力のある顔というのは便利だが、家に帰ってから晩酌する俺がダンテを横に置いていつになくにこやかだったのは言うまでもない。