過去、現在、未来

 いつもと何ら変わらない夜。ロックな音楽が流れる部屋、俺はソファに寝っ転がって、あいつは電話の前に座っている。ろくな電話が来ないのもいつものことだから俺は寝ない程度にぼんやりしながら、眩しい天井を遮るために瞼を閉じていた。
「どうした」
 不意に声を投げかけられ俺はワンテンポ遅れて目を開ける。独り言かと思ったが疑問形だし明らかにこっちの方に向けて聞こえたし、と視線を送るとやはり相手も俺を見ていた。いきなり何を聞かれたのか理解できず、そしてあっちも俺の反応が理解できないというような様子でお互いの顔を見合わせて目を瞬かせることしばし。先に口を開いたのは向こうの方だった。
「…溜息ついてただろう」
「え、俺?」
「ああ」
 記憶にはないが、確かだと言うからどうも無意識に吐いていたらしい。そういえばさっき何を考えていたかと頭の中を遡っていくと、あるところに思い当たる。
「恋患いか?」
 しかし発言したのは俺ではなく、声の主を見れば頬杖をついたヤツが意地悪そうな微笑を浮かべてこっちを見ていた。何か誤解しているみたいだがそういうキザったらしい仕草が自然で様になってるのがこいつの憎たらしいところで、俺も丸め込まれてたまるかと刃向かいたくなるものだ。
「だとしたらなんだよ」
「遠慮せずに相談してくれていいぞ」
「遠慮しとく。こちとら相談相手は選びたいんでね」
「ふむ。なら俺の相談に乗って貰おうか。皮肉屋で意地っ張りで強情な恋人を素直にする方法をな」
「…それは言い過ぎだろ」
 これでも俺は結構素直で柔軟でユーモアのある男として知られているはずなんだが。俺の抗議にもあいつは「そうか?」ととぼけてみせるだけで、どこが相談なんだかちっとも人の意見を聞きやしないから言うだけ無駄だった。
 と、まあ冗談はさておいて。俺は起き上がって座り直すと今度は意識的に溜息をつく。たいしたことじゃないけど、なんとなく、こいつに聞いて欲しい気分だった。
「…昨日、電話があってよ。勿論ハズレだが、よくある話さ、どっかのナントカって奴を始末してくれってな」
 裏稼業なんぞをやっているとそんな暗殺依頼は日常茶飯事だ。実際それを請け負う便利屋はいるが、もちろん俺たちは興味がない。とは言え別に止める義理もないから他人の仕事に口出しはしない。俺らと専門が違うだけで、裏の社会で生きていく奴らはそういうものだ。
 静かに聞いている彼に向かって俺は続ける。
「世の中、金払ってでも殺したい人間がそんなにいるもんかね」
 複雑な人間関係は人間の人間たる業だ、好き嫌いの単純な話だけじゃないことは分かってる。もう一人の半人半魔も「そうだな」と同意しつつも、嘆きはしなかった。
「誰かの仇…という場合もあるかもしれん」
「そりゃあるだろうけどな」
 悪魔とは言え母の仇を捜していた自分のように復讐や憎む心そのものを否定する気はないし、もちろん世直ししたいわけじゃない。そんな崇高な意志があるなら今頃こんな選り好みの商売はやっていない。ただ単に、これまで一応人間として裏社会で生きてる俺でもそんなに憎い人間に会ったことがないから不思議なもんだと思ったのだ。俺はソファに背を預けて天井を仰ぐ。
「昔付き合ってた奴らもみんな気の良い連中だった」
「ああ」
 同じ過去を持つ未来の俺も小さく頷いた。そりゃあ仕事では色んな人間を見てきたが、幸運なことに今まで直接関わった中で悪い奴はいないように思う。
 これでもかつては、まだ自分の店を持たなかった頃それなりに多くの人間の中で生活していた。穴蔵に集って仕事取り合ってた同業者の連中や、いつもまずい安ビールを飲んでいたかつての相棒、口は悪いが最高の銃を作ってくれたばあさんには世話になったし、やたら絡んでくるチンピラでさえ、まあ良い奴とは言わないが嫌いじゃなかった。もう昔の話だが、あれはあれで好きだったんだ。
「…みんな死んじまったけどな」
 久しく思い出していなかった懐かしい面々に思わず苦く笑った。死神もいいところだ、復讐に燃える人間よりよっぽどタチが悪いじゃないか。
 心残りがあるとすればひとつだけ、当時の相棒グルーの娘たちは元気にしているだろうか。気がかりではあるが償えるわけもないし、きっと彼女たちの記憶にあるトニー・レッドグレイブという男は父親と一緒にあの時死んでいるはずだ。偽りの名を捨てる前から俺とその周囲を知っている奴はもう情報屋のエンツォしか生きていない。それでも全てを話しているわけではないが。
 静かに席を立ち俺の隣へやってきた男に向かって俺は笑いかける。
「でもよ、まさかこうして思い出話なんかできる相手が出来るなんてなあ」
 みんな死んだのに、まさか自分がもう一人…正確にはあと二人いるんだが、時空が歪んで異世界に飛ばされて同じ過去持ってるヤツ相手に話をすることになるなんて誰が予想していただろうか。カミサマのいたずらってやつか、それとも悪魔の仕業かもしれない。
「ま、残念ながら過去には戻れないらしいけどな」
「…ダンテ」
 もともと無口なほうだが黙って聞いていた彼の低い声に名前を呼ばれて振り向けば、その顔が存外に近くにあったどころか両肩を優しく掴まれて正面に据えられる。
「な…んだよ」
 シリアスな雰囲気を醸し出す真剣な眼差しで真っ直ぐに見つめられて俺は少したじろいだ。ひょっとして俺が落ち込んでるとか思ってるんじゃないだろうな。『自分』に心配されちゃたまらない。
「言っとくけど、俺は別に…」
「飲むか」
 のむ…?真顔のまま短く言われ、一瞬反応が遅れる。
「……それはそんな迫力で言うことなのかよ」
 つい何の捻りも利かない素直なツッコミをすると彼はくつくつと笑った。
「ドキッとしたか?」
「そりゃあんな怖ぇ顔されたら何事かと思うだろ」
「悪いな、生まれつきだ」
 嘘つけ、わざとやってるくせに。お茶目なんて言ってやんねえぞ。
 彼はほんの一瞬だけ柔らかく微笑むと俺の頭を軽く撫でて立ち上がる。
「夜は長い。付き合うぞ」
 そう言い残してキッチンのほうへ踵を返して行ってしまった。
 やっぱり、気を遣わせてしまっただろうか。そんなつもりはなかったが、あいつはクールなふりして俺や他の奴らを気に掛けてくれているのは俺も分かってる。それをさりげなくやってのける包容力は年の功なのか、悔しいが俺にはない。けど俺だってあいつに気を遣わせたいわけじゃない。
 俺は立ち上がって後を追い、酒とつまみを用意している彼の横に並んだ。
「…な、あんたの話を聞かせてくれよ。俺の知らないあんたの過去をさ」
 本来なら俺も同じ道を辿っていくはずだったんだろうが、一気に未来の世界に来てしまった。きっと彼が俺ぐらいの時に経験してきたことを俺は見ることができなくなってしまっただろう。こいつは俺の過去を全部知ってるのに俺はこいつの知らない過去があるなんて不公平じゃないか。
「長くなるぞ?」
「いいさ、夜は長いからな」
 言いながら彼が切ったチーズを一切れつまみ食いして口に放り込んだ。これと気の置けない話相手がいれば酒の肴には困らない。
 そうだったな、と返す今の相棒は全てを切り終えると改めて俺の顔を見た。
「未来もこれから長いぞ」
「ああ…そうだな。…よろしく頼むよ」
「喜んで」
 にこりと優しく、嬉しそうに笑う。こいつがこんな穏やかな笑みを向けるのは俺だけだなんて自惚れたくないけど、でもこうして彼の腕が俺を抱き寄せに来てキスをされるくらいには、少なくとも恋患いの相談なんか必要ないくらいには通じ合ってると思ってる。なんか悔しいからそんな惚気たこと絶対言えないけどな。
 今こうしてることもいつか過去としてこいつと思い出すことがあるんだろうか。先のことは誰にも分からないが、そのほうが面白いし、楽しみだ。
 …けど、今はとりあえず行きすぎないようにストップをかけて身体を離す。物足りなそうな名残惜しそうな表情を浮かべる彼を促して俺は酒とグラスを手にリビングへ戻った。未来は長いんだから、俺たちだって急ぐ必要もないだろ?
 俺がソファに腰掛けてほどなく、チーズの乗った皿を手にやってきた彼も隣に座って、長く穏やかな夜が始まった。