雨と珈琲
そういえばあの時も夜からこんな嵐だったんだ。
土砂降りの雨につられて覗き込んでいた窓にいつしか身を預け、俺はじっと外を見ていた。視線はどこに留まるわけでもなく、強いて言うなら過去を巡る。
雨は特別な記憶と結びついている。
だからといって雨のたびに毎回こうしているわけではない。満月と重なると条件揃い踏みで最悪ではあるが、あとは天気とか関係なく時折思い出すだけだ。起きている時は、だが。
窓を流れ落ちていく滝の所為で外の世界は歪んで見え、飛沫を上げる地面は水の粒で霞んでいてよく捉えられない。目に映る向こうはあんなに暗く荒れ果てているというのに、それを見ている自分が髪の毛ひとつ濡らさずにいることが不思議に思えてくるほどだ。室内のジュークボックスから響くロックは俺の意識から離れ、強く耳打つ雨の音だけを聞きながらぼんやりと眺めていると暗がりに吸い込まれそうな感覚に陥る。
「ダンテ」
不意に俺を呼びかけてきた声はすぐ近くにあった。
振り向くと一体いつの間にいたのか、年長のダンテが側にやってきてコーヒーの入ったカップを差し出している。それも、俺の分だけ。
「…ああ、悪い」
頼んだわけではなかったものの、俺は柔らかい湯気を立ち上らせるそれを受け取った。が、彼が尚もそこに留まって微動だにしないものだから、どうしたのかと顔を上げればまっすぐに視線がぶつかる。
「…何?」
「そんな隅にいないでこっちに来い」
「ん?ああ、…大丈夫」
いつのものように静かな彼の声だが少し心配そうな色が滲んでいる気がして、俺が何を見ていたかなんてとっくにバレているだろうから変に繕うこともせず笑って誤魔化した。大丈夫というのは本心だけどこいつに悟られてしまったのはバツが悪くて、俺は視線を外しコーヒーを一口啜る。
俺好みの甘さぴったりに淹れられたそれは口から喉へ、まるでさっきまで宙を彷徨っていた意識も飲み込んでいくかのように体中に染み渡っていった。生き返った気分というのもおかしいかもしれないが、自分がここに繋ぎ止められた気がしてほっとする。
思わず息をついた自分を自覚しつつちらりと横を見れば、いまだそこに立っている奴。もちろん顔を上げるとばっちり目が合うおまけつきだ。
「そう見張るなよ。何も悪いことはしないぜ」
「…見ていないと出て行かれそうだからな」
「俺が?どこに、こんな雨の中をか?」
「雨だから、だ」
そう言って目を細めて外を見遣る。その視線はどこか遠く、きっとさっきまでの俺と同じものを見ているのだろう。
彼の言わんとしていることはなんとなく分かった。俺がぼーっとしていたことも確かだけど、過去の記憶にいたたまれなくなって家出するほど俺は繊細じゃない。それはこいつも分かっていると思うが、歳を取ると変なところで心配性になるのだろうか。
それに、だ。
「これ持って飛び出すかよ」
俺はもうとっくに、あんたの…このコーヒーのおかげで暖まってるんだ。無駄にする訳がない。
すると彼は静かに微笑んだかと思えば頭をぽんぽんと撫でてくるもんだから、俺は軽くその手を払いのけて抗議する。
「やめろ、ガキじゃねえんだから」
「そうか」
それなら、と言って近づいてきた一瞬のうちに唇が重なって、すぐに小さな音を立てて離れていった。
「ってめ…!」
「うむ、我ながらうまいな」
「あぁ!?」
「それ」
「…!あーもう、あんたの淹れるコーヒーは美味いよいつも」
相変わらず飄々としてやがる奴に半ばやけくそで、でも正直に言えば嬉しそうに笑う。この、ほんの少し空気を揺らすだけの微笑なのにいつも絆されちまう俺はつくづくこれに弱かった。普段あまり笑わないとこんな時に有利なんだな、とは思うけどどうせ俺には真似できそうにない。
「それくらいいつでも淹れてやる」
寄り添うように並んで窓に背を預けた彼が言う。
「…ああ、頼んどく」
カップの中で小さく言った俺の言葉は聞こえたかどうか分からないが、こつんと肩をくっつけてみると向こうも押し返してきた。まあ、ついでに後ろから腕を回してきたことは目を瞑っておくとする。暴れると折角のコーヒーが零れちまうからな。
気がつけばいつの間にかレコードは終わっていた。
降りしきる雨の音が外で響いているのを二人並んで聞きながら、こうしていればやがて雨の音とコーヒーの香りが結びついていく気がして、いつかそうなることを俺は希望のように思ったのだった。