飲みたい時もある
ぼんやり回したグラスの中でカラリと軽い音を立てて氷が泳いだ。
行きつけの飲み屋、そのカウンターに座った初代はグラスの三分の一ほど残ったジントニックを一気に飲み干し、すぐに追加を頼む。もう何杯目か数えていないが飲み過ぎだと咎める者もいない。
夕食時と言うには夜も更けすぎた時間。それでも店には夜のスラムで生きる客たちで賑わい、到底ガラのいいとは言えない集まりではあるが自身もその中の一人である。そんな客たちに負けず劣らず屈強な体格の店主は時に投げられる野次を怒鳴りつけながら忙しなく働いて、碌に見ないまま無造作に初代のグラスを受け取っていった。
「よう初代」
喧騒の中で不意に呼びかける親しげな声のほうへ視線を移せば、赤いコートを纏った銀髪の男が歩み寄ってきたところだった。初代に良く似た容姿ではあるが一目で年上と分かるのは無精髭の所為だけではなく、軽い口調とは裏腹に自然と滲み出る貫禄の所為でもある。
暫く帰ってきていなかった四代目だが、方向的におそらく事務所に向かう途中の寄り道というところだろう。嗜好も同じなら贔屓の店も同じというわけだ。
「おう」
「珍しいな、旦那はいないのか」
言いながら隣に腰掛ける男に初代は誰が何だってと睨みを利かせるが、四代目は軽く手を振っただけであしらった。
旦那、とはこの世界に集った「ダンテ」の中でも一番年長であり初代と恋仲である二代目のことだ。いつも傍にいる恋人のことを旦那と呼ばれて否定する理由がよく分からないが本人にとっては違うらしい。
けれども小さく舌打ちを零して前を向く初代を見て、それが自分に向けられたものではなさそうだと感じ取った四代目は面白そうに身を乗り出した。
「なんだなんだ、喧嘩でもしたかぁ?」
「ハ、なんでだよ。俺はピザを食いに来たんだ」
「あ、そ」
そう言う割にはピザが見当たらないが四代目はこれといって構うことなく、ちょうど初代のグラスを持ってやってきた店主に同じものを注文する。実際カレシとトラブったのか単にピザがなかなか出てこないだけなのかは知らないが、どちらにしろ四代目にとってはこれといってすることもないしお互い色恋の話に花を咲かせるような柄でもない。
四代目の前にジントニックが置かれたのを見届けてから初代は少し苦笑するように表情を変えると、心なしか声を潜めて言った。
「あーでも助かったぜ。実は今、金ねえんだよ」
「おいおい、俺は女にしか奢らない主義なんだが」
「同感。でも『自分』は別だろ?」
「その理論で言うと逆も然りだな」
「まあまあいいじゃねえか。若かりし『自分』が困ってるんだ、飯ぐらい食わせてやろうぜ」
普段は「他人」として割り切っているのにこんな時ばかり調子がいい。と思いつつもその性質は自分にも共通しているだけに四代目は諦めて貸しをつけておくことにした。こちらの事務所を拠点にしている他の三人とは違い単独で行動することが多い四代目の懐具合はそれほど寒くない。
機嫌を良くした初代が「ヘイ」と差し出したグラスに、一体なんの乾杯か意味もないがコツリとグラスを傾けた。
「何がピザだ、ったく…」
街灯も殆どない暗がりの道を行きながら男はひとり呟く。
夜空の月はとうに西に向かい始め、繁華街を過ぎ人通りもないスラムの外れで彼の呆れた声だけがしじまに消えた。
その横で金どころか肩まで借りて項垂れている初代は足元もおぼつかず、四代目に支えられて辛うじて立てている状態である。ピザを食べに来たと言っていた彼は一向にその気配もなく、つまみを少々口にしただけであとはひたすらアルコールを流し込み続けた結果遂にツブれたのだ。やはり最初からそのつもりで飲んでいたのだろうが、たまたま居合わせてしまったからには身内として世話を焼かなければいけなくなった四代目は運が悪い。金を払った挙句に男を介抱している自分が可哀想に思えても無理はなかった。
「おーい、頼むからまだ寝るなよ。あと吐くなよ」
うー、と呻くように返事をする初代を引きずって前を向けば既に帰宅場所が見える。一直線になった通りの突き当たりに堂々と構える派手なネオンはよく目立つが、その注目度と繁盛具合が比例しないのがこの商売の悲しいところだ。
殆ど機能停止した初代の足を階段にぶつけながら上って、四代目は玄関前で立ち止まる。中に入るには扉を引かねばならないが自分の両手は初代の腕と腰を支えていて塞がっていて使えないし、片手が空いている初代は言うまでもなく本体がダメになってるから無理だし、一度肩から下ろすのも面倒だ。幸い事務所の明かりは点いていて、よっぽど大胆な強盗が入り込んでいない限り二代目か三代目のどちらかがいるはずであるから、四代目は靴の先で扉を叩きながら「開けてくれ」とヘルプを呼ぶことにした。
ガンガンと蹴っているとやがて中で影が動くのが見え、少し後退して待ったと同時に開いた扉から一番年上のダンテが顔を覗かせる。何事かと問うまでもなく一瞥で状況を把握した彼はあからさまに呆れた顔を見せつつ、とりあえず扉を大きく開けて中へ導いた。
四代目は礼を言いながらそのまま部屋の中に入ってどさりと初代をソファの上に投げ込み、自分は向かいのソファでやれやれと一息つく。
「なんだ、いたのか。それなら迎えに来て貰えばよかったな」
扉を閉めて歩いてきた二代目は既にソファに沈んで眠りに落ちている自分の恋人を上から覗き込み、こちらもやれやれと溜息をついた。
「いきなり出て行ったかと思えば…」
「喧嘩か?」
「いや、特に何も。俺のほうはな」
どういう意味かと視線で問いかけると二代目は肩を竦めてみせる。
「…こいつはよく一人で何かと戦ってる」
「はは、まだ若いな」
実際見たわけではないがなんとなく分かる気がして四代目は苦笑いを浮かべた。
たぶん二代目とのやりとりの中で何か腹に据えかねることでもあったのだろうが、それを人に当たるほど子供ではなく、かと言って自分を上手く納得させられるほどにはできていないのかもしれない。年長の二人に比べれば初代もまだまだ──特にあのマレット島の大舞台から経験が浅くて若く、こちらの二人にしても自分がこの歳の頃はどんなだったかと思い出そうとしても今現在の彼とは状況が違うから考えても仕方のないことだ。しかも自身よりずっと成熟した未だ見ぬ「自分」と特別な関係を築いているのだからその複雑な心中たるや、一人で色々と思うことがあるのだろう。
二代目もそれくらいはよく分かっているに違いないが、酔い潰れて眠る初代を眺めるその表情は優しいものではあるけれどどこか歯がゆく、彼もまた色々と思うことがあるようだった。
二代目はふと顔を上げて何か言いたげな視線を投げかけると共に小さく口を開いた。
「…で、」
「で?」
「聞いたんじゃないのか」
「え?ああ、いいや何も。こいつ酔うとアンタのこと何も言わないし」
「……」
「愚痴だろ?ほんとだって、聞いたことねえな。それだけ不満がないって事じゃないか」
「…俺には文句か説教しか言わないんだが」
あながち冗談でもなさそうに眉を顰める二代目に四代目もハハ、と乾いた笑いを返した。それは実際よく見る光景だから残念ながらフォローのしようもない。
しかし再び大きく溜息を吐きながらソファの前に移動してきた二代目は満更でもなさそうな顔に見えたのも確かで、その彼はそのまましゃがみ込んで初代を抱え起こし始めた。
どうやらこのままここに寝かせておけずわざわざ上に連れて行ってあげる気らしい。なかなか紳士的だと感心するが勿論それは対象が限られているわけで。
「ようお父さん、俺は?」
「悪いな、こいつだけで手一杯だ」
「お、じゃあ今度飲むか。愚痴なら聞くぜ?」
「…あると思うか?」
予想通り二代目はちっとも苦じゃなさそうに言ってのけると、熟睡している初代を抱え上げて寝室に続く階段へ向かう。見かけによらず随分軽々と持ち上げているのは流石というか、見覚えのあるかつての自分の姿が恭しく抱えられている光景は何とも可笑しく映るが、二代目のほうは大層ご満悦の様子だ。どうせ運ぶ人もそのまま戻ってこないのだろうから、四代目はおやすみと軽く手を振ってその背中を見送った。
「…喧嘩するほど仲が良いとはよく言うが、喧嘩してるんだかしてないんだかよく分からない奴らだな…」
仲が良いのはイヤっちゅうほどわかるけど、と四代目はぽりぽりと顎を掻く。
初代が二代目に対する不満を漏らさないのは本当だが、もうひとつ、賛辞は零すという事実は初代の面目にかけて言わないでおいた。
これも貸しにしておこう。
まるで脅し文句のように考えながら四代目は大きく欠伸をして立ち上がった。