冬の二人

早足で歩く正面からピリリと顔を撫でる冷気に自然と息を吐く。それはこの季節にしか現さない白い姿となって、しかし一瞬のうちに冷たい空気の中へ溶けて消えた。
依頼を終え、エンツォの野郎に仲介料をぼったくられてから受け取ったアタッシュケースは中を見なくても相当な上げ底だと分かるくらい、支える右手の負担は軽微なものだ。
だからって店で飲まないでさっさと帰るのは金がないからって理由じゃない。
冬の冷えた空気を吸い込んで、俺はどちらかというと夏のほうが好きだな、なんて無意味なことを考える。弱いってわけではないが、俺よりもあいつのほうが寒さには強いかもしれないと、いつも胸元を大きく開けている彼の涼しい顔が脳裏に浮かんだ。
そこから誘発されるように、家にいるだろうか、いるとしたらまだ起きているだろうか、と考えてしまう自分が馬鹿らしくて小さく苦笑しながら、それでも次第に目的地が近づくにつれて早まる足を止めようとはしなかった。

スラムを通り飲み屋の喧騒だとか怪しい店のお誘いも過ぎた頃、その先に見えるお気に入りの赤いネオン。俺が主だったそれより少し年季の入った事務所にはまだ明かりが点っていた。
ほんの数段の小さな階段を一跨ぎし、鍵などついていないその扉を押すとふわりと空気が舞い上がる。

「おかえり」

中に足を踏み入れたと同時、部屋の温度を感じるよりも先に、静かでも染み込んでくるような低い声が俺を迎えた。正面の机に座って一人ちびちびと酒をやっていたらしいこの家の主に、ああただいま、と返して歩きながらホッと見えない息をつく。

「まだ起きてたのか?」
「暇で昼に寝過ぎたらしい」

だから眠くない、と見た目に似合わず子供じみたことをのんびり言うから少し笑ってしまった。昼間の時間を持て余すこいつの姿が目に浮かぶようだ。
こうして帰ってきた時に暖かい部屋に明かりが点いていておかえりと言う人がいる家は、世間では珍しくもないけれど俺にとっては遠い過去の記憶でしかなかったし、未来も無縁だと思っていた。それなのに、そう。未来は分からないものだった。居候の身でそれが不思議だなんて思うのもおかしいかもしれないが。
現金の入っているケースを無造作に置いて背中の剣を抜き、銃を外し、コートも脱いで、装備を解除した俺がさて寝るかと振り向こうとした寸前、後ろからするりと回された腕に抱きしめられる。

「…冷えてるな」
「あー。そう、結構寒いぜ、外」

布越しでもじわりと伝わってくる温度に大人しく身を預けていると、まだ冷たい俺の髪に落としていた唇が徐々に下に移動してきて耳元に辿り着いた。

「ベッドで温めてやろうか?」

思わずぞくりとするくらいの、そこらへんの女なら一発で落ちるに違いない熟年の色気を含んだ声を吹き込まれる。これより一回り若く粗野な俺には到底出せないであろうその雰囲気は、けれども俺にはよく向けられるものでもあった。

「そりゃあベッドに入れば誰だって温まるだろうよ」

いつものように軽く返してやればくつくつと楽しそうに笑う。口説いてかわされる、それも見越した上でのコミュニケーションだ。こいつも端からこれで俺が落ちるとは思っちゃいない。この余裕の笑みがその証拠だ。
そのまま俺の肩に顎を乗っけて動く気配のないそいつに俺は苦笑し、その抱きすくめる腕を解いてくるりと向き直って、しょうがないというふうに少し肩を竦めてみせた。

「…ま、ベッド『を』暖めてくれるってんなら、考えなくもないけどな」
「ふむ。今はそれで手を打ってもいいか」

今はな、と皮肉たっぷりに言いやがるから、俺も負けじと応戦する。

「でも眠くないんだろ?」
「一人で起きてるのが暇ならお前と眠るさ」

机上のグラスに残っていたほんの僅かな酒を呷ってから、どうぞ、と王子様よろしく俺の背に手を添えて先を促した。
なんだ結局のところ俺がいなくて退屈だったと素直に言えばいいのに。と思ったが、こいつが理由で真っ直ぐ帰ってきた自分も自分なので俺もはいはいと素直に従うことにする。

後ろで彼が明かりを消して俺は先に暗い階段を上り、どっちに入ろうが結果は同じだけどとりあえず自分の部屋に入って、その温度と等しく冷えているベッドの少し右端に潜り込む。俺より少し遅れてやって来た恋人が隣に入ってくるのを眺めながら、そういえばさっき帰路の途中で考えたことをふと思い出した。

「な。あんたは冬は好きか?」

なんの脈略もない問い掛けにも訝ることなく、頭をぽすりと枕に置いて体勢を整え一息ついてから真正面の俺を見る。

「そうだな。好きというよりは…好きになった、か」

そうして当然のように抱き寄せられて、どっちが温められてるんだか分からないその存在が心地よくて、そういう理由なら確かに冬も悪くはないかもしれない。
なんて口に出しては言わないけど、自然と暖かいほうへ寄って行っちまうのは寒いんだから仕方ないだろ?

誰かさんと違いしっかり働いてきた俺は目を閉じればすぐに眠気に誘われ、悪いがお先にさっさと眠らせてもらう。
言わずとも悟って俺の額にキスを落としながらおやすみと囁くダンテの穏やかな声を最後に、俺の意識は暖かい空気の中へ溶けていった。