微笑みのルーツ

 昼夜を問わない仕事ゆえ、真昼間と言えどぐっすり寝入ったところを起こすのに気が引けないわけではない。これが仕事の依頼であればトリッシュだけでもある程度の対応は済ませられるのだが、今はそうはいかなかった。
「ダンテ、起きて」
 寝室に入り、トリッシュは眠る彼の身体を優しく揺する。起こす手段としては一番弱い。さてどの段階で起きてくれるのか、あまり強いと下にいる客を驚かせてしまうから早めにお願いしたいのだけど、などと考えながら、もう一度。
「ねえ、ダンテ」
 最初より少し強めに揺すってみると、ダンテは小さく呻いて身じろぎをした。
「んぁー……もうちょっと下」
「馬鹿言ってないで起きるの。ネロが来たわよ」
 ぱちりと目が開く。さすがに飛び起きるまではいかないが、覚醒はしたらしい。物理よりも効果的な名前だったようだ。
「……ネロが?」
「わざわざ来てくれたんだから、ほら」
 促されたダンテは素直に身を起こして軽く伸びをした。右側の髪に小さな寝癖がついているが、この程度なら愛嬌だろう。彼が起きたのを見届けてトリッシュは立ち上がり、服を着てから来てよ、と一応の忠告も残して寝室を後にする。
 さて、予定より早いが朝食の準備が必要か。ネロに出すのはコーヒーでいいだろうか。それとも――すべきことを考えつつ階段を降りていくと、あるものを見つめて立ち尽くすネロの姿が目に入った。
 ああ、そうか。
 気が付くと同時に、心に微かな波が立つ。 
「これって、もしかしてダンテの……」
 右手に持った写真立てから目を離さぬままネロは呟いた。常にダンテの机の上で微笑んでいる、長い金髪の女性。
「ええ」
 つまり、ネロにとっては――。
 おばあちゃん、と口の中で小さく確かめるネロをトリッシュは黙って見ていた。血縁というものが存在しない彼女にとって今ネロが感じている感覚を知ることはできないが、あまりに特別であることは、ダンテと共に生きてきた中で理解していた。そして自分の容姿もまた特別であることも、生まれた時から決定されていた。
 その事実をネロが知る時は必ず来るのに、今の今まで思いつかなかったのはなぜだろう。あまりにも安寧に身を委ねていたせいか、それとも考えるのを避けていたのか、今は自己分析する余裕がない。
 ところが、口を開いた彼の反応はトリッシュにとって意外なものだった。
「うーん、若すぎてピンと来ないな」
 それだけ言うとネロは照れ臭そうに鼻を掻く。
 相槌も忘れてトリッシュは目を見開いた。
 この写真を見た者は皆、ただトリッシュの写真だと思うか、あるいは何か言いたげにトリッシュと写真を見比べるかのどちらかだ。慣れているし、赤の他人の反応など意には介さない。だが、写真の彼女の、そして何よりダンテの血縁たるネロからの視線に自分の感情がどう揺れるかは、正直なところ無関心でいる自信がなかった。だからこそ、身構えずにいられなかったのだが。
 目の前の彼はまったく「普通」に彼女と話を続ける。写真立てを戻し、少し斜に構えた笑顔すら見せ、
「ニコのやつなんかは会ったこともないのにばあちゃんばあちゃんうるさいけど、俺にはいまいち……なんだよ?」
 まるで妙な生物を観察する目でまじまじと見られていることに気づいたネロが怪訝そうに眉を顰めた。
「やっぱり私、あなたのこと好きだわ」
「ッ……ぇあ!?なんだよ急に!」
 ネロからすれば何の脈略もない宣言だろう、動揺するのも無理はない。みるみる顔に血を上らせていく年若い青年に、トリッシュは好感と親しみをもって笑いかける。少女のように無邪気な笑顔が尚更ネロを混乱させるのだとも知らず。
「あら変な意味じゃないのよ」
「当たり前だろ!くそ、意味わかんねえっていうかダンテはいつまで……いるじゃねーか!」
 見上げた先、階段の上ではいつの間にかダンテが二人を見下ろしていた。手すりに身を預け、頬杖までついて、いつからそこにいたかなど訊かずともその顔を見ればトリッシュには分かる。
 だがネロにとってはよく分からない見世物になったようで面白くないらしく、すっかり観客を決め込んでいる家の主を睨みつけた。
「何見てんだよ」
「いいや、別に」
 静かに答えるダンテの顔に普段見せる不敵な表情とは違う柔らかな笑みが零れる。
 その優しい微笑は、写真の中の彼女とよく似ていた。

(2023.06.09)