普通で特別ないつかの夜

 待ち合わせに指定した場所は、眼下に街並みを一望できる丘の上。人間たちの生きる営みを遠くから、その誰にも気づかれずに眺めることができるこの場所がトリッシュは好きだった。特に夜の時間、家々の窓からあたたかな灯りが漏れる今の景色が。
「遅刻しないなんて珍しいじゃない」
「お前は早く来てるだろうと思ってな」
 振り返ることなく背後の気配だけでトリッシュは話しかけるが、相手もまるで当然のように相槌を返す。トリッシュがこの場所をお気に入りなのはダンテも知っていた。彼女を初めてここへ連れてきたのは彼だからだ。
 ダンテは隣まで歩いてくると、途中で買ってきたらしいコーヒーを差し出した。思いがけない差し入れにトリッシュの顔が綻ぶ。寒いほどではないが、陽が落ちたこの時間はまだ風が冷たい冬の終わり。受け取った手に伝わる温度が嬉しかった。
 コーヒーの湯気の先で光が揺れている。あの中では人々がそれぞれの家族と夕食を囲んでいるのだろう。彼らはきっと、ここにいる二人の存在を夢にも思っていない。あるとすれば幽霊とか宇宙人とかそういう類かしらとトリッシュは考えてみるが、あながち遠くはない気がする。
「ねえ、想像したことある?もしあなたが普通の…あの中の一人だったら、って」
 連なる灯から目を離さぬまま、不意にトリッシュはダンテに尋ねた。
「あいにく親父が悪魔な時点であり得ないぜ」
「もしもの話よ。悪魔は聖書の中だけ。両親がいて、兄弟がいて、毎日学校いって、就職して…」
 彼女が本もしくはテレビドラマか何かで学んだらしい人間の「普通の」人生設計に対し、うーん、とダンテは唸った。サラリーマンの自分でも想像したのか、あからさまに苦い顔をしている。
「そりゃもう別人だな、俺って気がしねえ」
「赤いスーツはまずいものね」
 堪えきれないと言わんばかりにけらけらと笑う自由気ままな彼女をダンテが恨めしげに見た。
「お前だって人のこと言えないだろ。学校や会社行く気か?」
 問われたトリッシュは一瞬だけ言葉に詰まったようだった。
「私は存在しないわよ」
 そもそもね、と独り言のように呟く。彼女の出自は複雑だ。仮定の話をするにしても出発点がない。
 しかしダンテはどこか自信たっぷりという様子で――彼の根拠のないこういう態度はいつも彼女を安堵させるのだが――にやりと笑った。
「もしもの話なんだろ?なら、ある日バイクで俺の家に突っ込んでくるさ」
「それのどこが『普通』なのよ」
「つまりだ。どのみち普通じゃないと思うぜ、お前は」
「あら、ご挨拶ですこと」
 言葉と裏腹に自覚があるせいかさして咎める調子でもない。それでも一応抗議する彼女を宥めるようにダンテは続ける。
「特別なんだよ。…少なくとも俺にとってはな」
 言い終わる頃にはその視線は眼下の夜景に戻されていた。彼にしては珍しい照れ隠しであることをトリッシュは分かっている。
「…じゃあそれでいいわ」
 その真心を素直に受け取り積み重ねていけるのが彼女の美徳であり、二人を築く関係でもあった。ふ、とダンテも短く応えるだけだが、お互い伝わったのならそれだけでいい。
「さてと、仕事の時間だぜ。クズどもがお仕置きを待ってる」
 やがていつもの調子でダンテは相棒を促した。
「すごく刺激的な響きね、ダンテ」
 応じるトリッシュの手には禍々しい魔力を纏う巨大な刃。自分の背丈よりもある魔剣を女の細腕で軽々と肩に担いで歩く足取りは妖艶にして雄々しい。
 その後姿を眺めながらダンテはしみじみと顎を撫でた。
「…やっぱり、特別だよな」
 彼女の黒い服が闇に消えたあとも小さな雷光の迸りが明滅してダンテを呼んでいる。向こうの光よりこっちの光のほうに惹かれるのは確かだと、ダンテは夜の街を背にいつもの仕事へ繰り出した。

(2020.03.10)