夢に願いを

 目が覚めて最初に彼女が知覚したのは、いつからか降り出していた雨の音だった。
 とはいえその降り方は心地良く響く程度であり、眠りを妨げるものではない。すぐに自分を起こしたのがそれではないことに気付いたトリッシュは隣を見る。
 起きている時はいつも余裕の笑みを浮かべて軽口を叩く相棒が、今は顔を険しく顰め、時折呻きながら夢の中を彷徨っているらしい。
「ダンテ。ねえ起きて」
 見かねたトリッシュがその肩を揺らせば、外部からの唐突な干渉に驚いたかのごとく彼はがばりと身を起こした。それでもまだ頭が追いついていない様子でまじまじとトリッシュの顔を眺めている。
「悪い夢を見たのね」
「…あー…」
 ようやく現実に戻ってきたダンテが気の抜けた声を出した。そして少しバツが悪そうに手で顔を覆う。彼が何を見たのか、そして起きた時に彼女の顔を見つめたその理由を、訊かずともトリッシュには分かっていた。
 はずなのだが。
「参ったぜ。巨大なピザが」
「何?」
 予想に反して発せられたダンテの言葉に思わずトリッシュは訊き返した。ピザというのは言わずと知れた彼の大好物のピザである。
「UFOみたいな巨大なピザに押し潰されそうになって」
 汗の引いた体をぶるりと震わせ、深刻に語り始める。迫真の表情に圧されてついその情景を思い浮かべて話を追いそうになったトリッシュだったが、すぐさまこれが「心配して損した」状況であることを思い出して大きく溜息をついた。
「へえ、そう」
「いや大変なんだぞ。頭上から流れてくる灼熱のチーズの恐怖といったら、お前想像できるか?」
「そうね」
 なおも追いすがるダンテへ適当に生返事をしながら横になり、背を向けて寝直す態勢に入る。別にそんなものを想像したところで現実に体験する機会などない。
 しばしの沈黙の後で向こうももぞもぞと潜り込む気配がした。珍しく諦めがいい。
 が、入れ違いに再びトリッシュが起き上がった。
「ちょっと、騙されるところだったじゃないの」
 日頃の言動からうっかり信じてしまいそうになったが、よくよく考えたらピザ襲来などという夢は目尻に涙を溜めて見る類のものではないし、あの魘され方も初めてではない。
 やはりトリッシュの思っていた通りの夢――母を失くす夢だったのだ。ダンテはそれ以上誤魔化そうとはせず、肯定するかわりに静かに苦笑いを浮かべていた。もとから騙せるとは思っていなかったのかもしれない。殊に彼の過去を知り理由を知る彼女の前では。
 ダンテの母親エヴァが魔帝ムンドゥスによって殺害されたのはトリッシュが生まれるずっと前のことで、彼女自身は直接は知らない。それから20年を経たムンドゥスの計画によって生み出され、歯車の一部であったトリッシュは己の容姿の意味も役割も理解していた。ダンテを罠にかけるために都合のいい姿、ただそれだけのものだった。ほかの感情はない。それが悪魔である彼女の存在意義だった。
 やがて人の心を持ち、ダンテと共にいることを選んだ時、自身の顔について少しばかり別の感情が湧いたことはある。だがダンテが自分を母親の模造ではなく一人の女性として見てくれていると分かり、不安はすぐに消えた。だからこそトリッシュは彼の傍にいた。そうでなければとっくに別れて彼女自身の新しい人生を始めていただろう。赤の他人と、しかも好いた男の母親と同一視されてまで一緒にいられるほど出来た人間はそういない。
「大丈夫?」
 ぼんやりと天を仰いでいるダンテをトリッシュは少し遠慮がちに覗き込んだ。
「…減ってるんだ、あれ以来」
 天井を見つめたままぽつりと言う。
 あれというのは魔帝を倒し母の仇を討ったことだろう。ただそれ以上の胸の内をはかりかねたトリッシュは黙って聞いていた。悪夢を見ることが減ったというのに、彼がどこか悲しげに見えたからだ。
「おかしな話だよな。今はそれが、あの夢を見なくなることが怖い」
 ダンテの見る悪夢は幻想の類ではなく過去の記憶だ。幼少の頃に起きた恐ろしい事件、いわば彼の行動原理というべき出来事。それを繰り返し夢に見るのは、復讐に燃え忘れまいとする彼自身の意志でもあった。しかし仇を討ち果たしたことで、最愛の母の最期の姿が、忘れてはいけないことが、ほかの小さな記憶と同じように時とともに薄れていくことをダンテは恐れているのだ。
 忘れたくない悪夢。そのような矛盾した存在を考えたこともなかったトリッシュは返す答えを見つけられずにいた。
「ごめんなさい。私には分からないわ、まだ…そういう経験がないから」
「いいんだ、そのほうがいい」
 ダンテの声は極めて優しい。悲劇を持たない彼女を彼は心から喜び、そう望んでいるが、トリッシュからしてみれば傍にいながら慰めるべき言葉を知らないことは歯がゆいことだった。とはいえ無闇に上辺を取り繕うこともしたくない。
 悪魔であるトリッシュは実年齢以上の情報を知識として生まれ持ち、かつての標的であるダンテの経歴に関してはあくまで魔界側の見地ではあるがよく知る数少ない人物といっていいだろう。だからこそもどかしくもあった。知識だけでは及ばない感情があることを、ここの生活で知った。
 ましてや夢の中など、いくら努力してもどうにもならない。
 ふと、そう思い至ったのは初めてではないとトリッシュは気が付いた。むしろ近頃よく感じていたが彼には話していなかったことも。
「ねえ、私も最近夢を見るようになったのよ」
 静かに寄り添い、まるで秘密を打ち明けるように言う。
「最近?」
「そういう機会がなかったから。あなたほど長く生きてないし」
「ああ、そうか」
 魔界で生まれたトリッシュは人間としての生活を始めてまだそれほど長くない。眠り、夢を見ることも例外ではなかった。
「あなたを殺す計画を立てる夢とか、ムンドゥスに追いかけられる夢とか、魔界から出られない夢とか」
「おいおい、いい夢はないのか?」
「いい夢よ?」
 不穏な単語の列挙に思わず眉を顰めるダンテと対照的にトリッシュは事も無げに、そして少し勿体ぶってから、
「だっていつもヒーローが助けに来てくれるもの」
 赤いコートのね、と付け加える。
「…本当に?」
「ほんと」
「どうりですやすや寝てるわけだ」
 嬉しそうに緩ませた顔を寄せるダンテだったが、トリッシュはそれを押し止めて続けた。
「でも目が覚めた時、ちょっとがっかりするのよ」
「なんでだよ。現実のほうがいい男だろ?」
「そういうことじゃなくて。…私はね、ダンテ。あなたを助けに行く役がやりたいの」
 ダンテの目が見開かれる。その頬をトリッシュはそっと撫で、
「だから、もしあなたの夢に私が出たら教えてくれる?きっと自分で見るよりあなたが見てくれたほうが嬉しいわ」
 ほんの一瞬、ダンテの青い瞳が揺れた。しかしすぐにそれを隠すかのように彼は目を閉じる。
「…俺が見るとあまりいい展開にはならないぜ」
「もう。私の活躍を願ってちょうだい」
 変なところでネガティブなんだからと口を尖らせる。実際に彼女はかつてムンドゥスからダンテを庇って一度命を落としているから、その時の悪夢を彼は既に見ているのかもしれない。それも含めた上での「願い」だった。現実であったように起き上がって、一緒に魔帝を倒してしまえばいい。
 同じ場面を見ていたのだろうか。再び開かれたダンテの双眸は少しばかり彷徨ったあと、やがていつもの強い光でトリッシュのそれを見つめ返した。
「なあトリッシュ。ひとつ言っておくが、俺のことは守らなくていいんだぞ。ああ、夢の話じゃなくて…」
「守られないために強くなった人の前でそんなこと思うほどおこがましくないわよ」
 ぴしゃりと言い放たれたダンテが呆気に取られている。口は開いているが珍しく言葉が出てこないらしいその様子をしばし面白く眺めた後、
「でもね」
 あなたを死なせないためならなんでもする。
 そう言いかけてトリッシュは口を噤んだ。
 誰より強い彼を守れるとは思っていない。だが彼を生かすために戦うことはできる。共についていくと決めた時からの確かな本音ではあるが、伝えることで足枷になりたくはなかった。ダンテはなんの懸念もなく力を奮うべきで、多少の無茶はあっても、それが彼の良さなのだから。
「…なんだ?」
 会話の続きを窺うダンテに微笑だけを返し、トリッシュは忙しなく毛布を掛けなおした。
「なんでもない。ほら寝て、またうなされたら叩き起こしてあげるから。電気ショックでもいいわよ」
「起きるどころか俺の心臓が止まる」
「そしたらもう一回やればいいのよね。こうやって胸に…この前ドラマで見たわ」
「わかった。頼もしいが、できればもっと優しい方法でよろしくな、相棒」
 降参とばかりに苦笑しつつダンテはトリッシュの身体を抱き寄せた。そのまま、おやすみ、と深い呼吸をひとつする。
 直に感じる彼の体温と鼓動。そこに落ち着くのは心地良いが、今の彼女の望みは違っていた。 
「待って、逆よ」
「逆?」
 トリッシュはもぞもぞとダンテの腕の中から抜け出すと、今度は自らの腕を回して彼をその胸に抱き込んだ。そして満足そうに息をつく。
「これでいいわ」
「……まあ、悪くない感触だが…」
「よかった」
 おやすみなさい、と小さく囁いて目を閉じる。困惑して固まっているだけかもしれないがひとまずダンテも大人しく収まっていた。

 トリッシュが悪夢を全く見ないかというと、そうでもない。暗く冷たい虚無の中を落ちていく、おそらくあの時の死の記憶を彼女は見ることがある。しかし暗闇の底に辿り着く前にいつも光が宿った。優しく、不思議と泣きたくなるような温もりが、胸のあたりから湧き上がり包み込んでいく。ちょうど、今のように。
 この人も感じてくれていたらいいのだけど。
 やがてそっと抱き返してきた彼の腕と、これから見るであろう夢に、トリッシュはそう願わずにいられなかった。

(2019.10.20)