イノセンス
『Devil May Cry』の扉を開けると、そこにはいつものようにやる気のなさそうな事務所の主が雑誌をめくっていた。ピザの箱や空き瓶が並ぶ机の上に足を投げ出し、客が来たというのに顔を上げることすらしない。おそらく音だけで誰が来たか分かっているのだろう。
「聞いたわよ」
一方、客のレディはレディで挨拶もなしに切り出した。背負っていた巨大な銃を下ろし、ヘテロクロミアの目を隠すサングラスを外しながら話を続ける。
「実入りのいい仕事、あったんだって?」
「金ならもうない」
相変わらず手元に視線を落としたままダンテが即答した。付き合いが長いだけに、この会話も初めてではないのだ。
「嘘言わないでよ。それがよほど高級なピザなわけ?」
目の前に積んであるピザの空箱を指してレディが言うと、ようやくダンテは顔を上げた。雑誌を放り、机から足を下ろし、軽く身を乗り出して説明態勢になる。
「いいか、俺には色んなツケがある。それを一つずつ払っていくと」
パァだ、と手を広げてみせ、そしてなぜか得意げに頷いてから、再び雑誌を手に取った。
「私はまだ払われてないんだけど?」
「惜しかったな、順番では次だったんだが」
適当極まりない返事からして、何を言っても気に留めないであろうことは明らかだった。金があることのほうが珍しい人生のくせに、なまじそれで無事に生きてきたもんだから妙な自信があるらしい。そもそも金だけでなく多くのことに執着心を見せない男だ。何事にもこの調子である。
しかしもちろんレディもそんなことは把握しており、尚且つ利用してもいる。実際のところ、ダンテはレディに金を借りてはいない。仕事の仲介料だとか経費だとかレンタル料だとかの名目での取立てだが、その裁量はレディの一存だった。
「ま、それはそれで利子だけで稼げるからいいか」
「お前…」
「ところでさっき見かけたんだけど、トリッシュと一緒にいた男は誰?新しい情報屋?」
「…誰だって?」
初耳らしいダンテの反応を見てレディは一瞬だけ意外そうな顔をした。
「カフェで。茶色い髪で身なりのいい、若い男」
あえて「若い男」が強調されたのは気のせいではないが、少なくとも情報屋や仲介屋という筋ではダンテには心当たりがないようだった。仕事の選り好みが激しい『Devil May Cry』に関わろうとする物好きな情報屋はそう多くない。トリッシュだけのコネという可能性もあるが、どちらにしろこの狭い業界でも二人が知らない人物らしい。
「依頼人か何かだろ」
「ふーん、それにしては随分親しげだったけど。知らないならいいわ、忘れて」
忘れさせる気などなさそうな余計な一言でダンテは露骨に嫌そうな顔を向けるも、レディはそ知らぬ顔で勝手にピザを一切れつまんでいた。なおも聞こえよがしに「なるほどねぇ」などと呟きながら、
「最近流行ってるメロドラマ見たことある?不倫と駆け落ち」
「用が済んだなら帰れよ」
珍しく邪険に追い払おうとするダンテに対し、レディは居直った。
「私に当たってもしょうがないでしょ。ツケよツケ。むしろ今までよく…」
人の話を聞かないだの無責任な言動だのここぞとばかりに日頃のいい加減な生活態度について非難の嵐が降りかかってきたため、ダンテは慌てて雑誌を読むふりをして聞き流す。
レディの憂さ晴らしをBGMにしながら、ダンテは一時間ほど前にトリッシュが買い物に行くと言って出て行った時のことを思い返していた。しかし別に変わった様子もなし、ただ彼女が人と会っていただけでこうして意識すること自体がレディの悪ふざけに乗せられているような気がしてきて、すぐに思い起こすのをやめにした。
トリッシュが帰ってきたのは、それからおよそ二時間後。
これほど時間がかかるとは思えない量の食料品が入った紙袋を抱える彼女にダンテはそれとなく訊いてみるも、「ちょっと寄り道してきた」と返ってきただけであとは普段と同じ他愛ない会話が続いた。今日に限って根掘り葉掘り聞くわけにいかずダンテもそれ以上追及しなかったが、少なくとも仕事の依頼ではなかったらしい。
つまり、謎の男は謎のままだ。
客観的に見ても彼女は歩くだけで男の目を引く美貌であるから言い寄られるのは日常茶飯事ではある。それに一人でふらりとどこかへ出稼ぎに行くことも珍しくないため、ひょっとしたらダンテよりも他人との関わりは持っているのかもしれない。自分も彼女も束縛が嫌いだし、誰といつ会おうが自由だ。分かっていてもこうして考えさせられるのはレディの穿った刷り込みのせいだろう、別に気にしちゃいないとダンテは自分に言い聞かせる。意地になって尋ねずにいることを本心では自覚していながら。
イノセンス(2)
二人の生活はこれまでと何ら変わらなかった。たまに入ってくる仕事を二人で片付け、トリッシュが度々出かけて帰ってくる。違うことといえば彼女の所在不明時にしばしばダンテの機嫌が傾くくらいで、もとより愛想がいいわけでも来客が多いわけでもないからさしたる影響も無く、やがてそれも日常を経るにつれて薄れていった。
それから二週間ほど過ぎた、ある朝のことだった。
いつもならダンテが起きる頃にトリッシュが食事を用意していて、ほとんど昼に近い朝食を二人でとる。ところがその日ダンテが起きるとカウンターにトリッシュの姿はない。
またどこかに出かけたのかと思いきや、ちょうど洗面所から出てきた彼女と出くわし、ダンテは目を丸くした。
「そりゃあ何のコスプレだ?」
白いブラウスに黒いスカートとピンヒール。
長い金髪はシンプルにまとめられている。
「コスプレとは失礼ね。…変かしら?」
腰に手を当て、いかにもデキるキャリアウーマンといった風に軽くポーズをとる。普段のレザーパンツ姿に慣れているダンテにはやはりコスプレに見えるが、悪いとは言っていない。
「いや変とか変じゃないとか、変ではないけど」
「本当?スカートって動きにくいのね」
それもそうだろう、彼女が穿いているのはタイトスカートだ。これでは得意の豪快な足技をキメるわけにはいかない。それはそれで見てみたい気もするが…といつにも増して強調された美しい曲線をまじまじと眺めるダンテをよそに、トリッシュはヒールを鳴らして外への扉に向かっていく。
「おい、どこ行くんだその格好で」
思わず呼び止めたダンテを振り返り、トリッシュはほんの一瞬躊躇うような素振りを見せたあと、
「…あとで話すわ」
そう短く言い残して出て行った。
「……」
二週間前からの疑惑がダンテの脳裏を過ぎる。明らかに普通ではないのに理由を知れないというのはもどかしく、苛立たしい。とはいえ、密会というような格好でもなかった――前向きに考えるならば。
「……転職活動か?」
きちんと用意されていた朝食のサンドイッチをかじりながら、起きぬけで半裸の男が考えついたのはそれぐらいだった。
あとで話すと言われたものの、今度はその「あとで」がいつなのか気にかかる。
日が沈み、たまたまモリソンが持ってきた仕事を珍しく二つ返事で受け、気晴らしとばかりに暴れまわって帰ってきても、彼女のほうはまだ帰っていない。
こう気を揉まされるくらいならあの日最初から直接訊いてみればよかった、などとこれまた珍しく回顧までした。
「…待つには自由すぎるな、あいつは」
自分を棚に上げ、ダンテは独り呟く。
翌日、それも夕刻になってようやくトリッシュは帰ってきた。
ダンテがちょうど届いたピザの箱を開けて一口目に食いついたところだった。扉が開き、入ってくるなりまっすぐ机の上に腰掛け一息つく。
「……」
横からダンテが箱を差し出すと彼女も一枚つまんで、二人とも無言でピザを食べることしばし。
「こればかりで飽きないの?」
「飽きたら好物じゃない」
「なるほど、至言だわ」
トリッシュは小さく笑って立ち上がると、カウンターの奥へ歩いていく。
「…半年くらい前かしら。ある事件を調べてたら、同じ件を追ってた刑事さんと知り合って」
グラスにワインを注ぎながら話し始めた。あなたも、と尋ねる素振りを見せたあとでもう一人分のグラスを満たす。
「もちろん向こうは悪魔が絡んでるなんて思いもしないから、行き詰ってたみたい。そりゃそうよね、犯人の証拠なんか出るわけないもの」
「あー、事件になると厄介だな。でも解決したんだろ?」
「表向きは偶発的な事故ということでね。元凶の悪魔は倒したけど、まさか真犯人は悪魔でしたなんて発表するわけにもいかないから、私とその刑事さんとでなんとか策を練って。結構面倒だったのよ」
二つのグラスを手に戻ってきたトリッシュは、それでもどこか面白そうに、近所の犬を手懐けたとか熊の足跡を工作したとか便利屋らしいといえばらしい地味な暗躍の数々を語った。なかなか貴重な経験を積んだようだが彼女いわく「悪魔を躾けるほうがよほど簡単」だという。
「しかしその刑事、よく悪魔の話を信じたな。よほど信心深いかオカルトマニアか」
「簡単よ、現物を見ちゃったから。真面目だし有能だとは思ったけど、まさか居合わせるなんて」
「は、そりゃ災難だ。卒倒もんだな」
「したわね」
予想通りの展開に二人とも笑い、まあおかげで遠慮なく力を出せたけど、とトリッシュは付け加えた。偶然でも必然でも犯人に辿り着くということは刑事として有望な能力ではあるが、悪魔の異形な姿は普通の人間にとって刺激が強い。気絶した大の男をトリッシュが担いで帰ったのであろう光景はダンテには易々と想像がついた。
「それでまあ世話もしたけど、周囲には色々と伏せておいてくれたし、いくらかは世話になったのよ。その彼とこの前偶然再会してね。近くの事件を捜査してるとかで、その時にこれを頼まれたの」
そう言って今の自分の格好を指す。結んでいた髪を解き、交差するしなやかな脚の先で半分脱いだパンプスをブラブラさせている姿はまさしく仕事終わりのビジネスウーマンである。
「コスプレを?」
「もう。潜入捜査の協力をよ。大体なんでコスプレなの、一般的な服なんでしょこれ?」
「世の中にはいろんなフェチがあってな、ってそんな話はいいんだよ。何も俺に隠すことないだろ」
ほんのちょっとでも心配したじゃねえか、とは言わない。
「隠してたわけじゃないわ。ただちょっと…言い出しにくくて」
「なんで」
「…笑わないでよ?」
さすがのダンテでもこの場面で茶化す気などあるわけがない。彼が頷いたのを見てからトリッシュは言葉を続ける。
「友人が出来るかもって期待してたの、私」
そう言って少しきまりが悪そうにはにかんだ。
「それは…いいことじゃないか」
「出来ればね。だけど自分でもどうなるか分からなかったから。実際、駄目だったわけだし」
「駄目だったって?襲われたとか強引に迫られたとか」
「全然違うわよ。まあ好意はあったみたいだけど」
さらりと言うが、別に嫌味には聞こえない。彼女のような女と近づいて下心を抱かない男はいないだろうと当然のごとく納得する。
そうじゃなくて私の問題なんだとトリッシュは言った。悪魔の血のように赤いワインに口をつけ、小さく肩を竦める。
「人付き合いって、そう都合よくはいかないものね。隠し事があると特に…フェアじゃないでしょ?相手のためにもせいぜい『知人』でいるべきだって」
ダンテにはトリッシュの言う意味が分かる――おそらく彼女の場合は自分よりも更に複雑であろうことも。半人半魔とはいえ人間界で人間として生まれ育ったダンテと違い、トリッシュは魔界で生まれた生粋の悪魔だ。見た目こそ人間の大人の女だが、出身地も経歴も、普通の人間なら誰しもある経験も、ファミリーネームすらない。出自を秘めている限り親しくなればなるほど嘘や誤魔化しが増えるだろう。そこに負い目を感じるのであれば、関係は続かない。彼女はそう悟ったのだ。
ダンテ自身の人間関係も広くはない。その中で彼の素性を知っている極々一部の人間を除くとなるとほとんど顔見知りの域を出ないのが現実だが、それは自身の性格に起因するところも大きいのであって、たとえば近所付き合いに関しては彼女のほうがよほど上手くやっているし人気もあるように思える。
「つまるところ、お互い相手に何を求めるか、だろうな。詮索せずに続く関係も世の中にはあるさ」
俺も不得意分野だから説得力はないがな、と皮肉を口にしてダンテはグラスに残ったワインを飲み干した。
「レディも似たようなこと言ってたわ。それに、親しくなったら逆に厄介なしがらみもできるとか」
「ちょっと待て。あいつ、このこと知ってんのか?」
思いがけず出てきた名前を聞いてダンテはむせるのをようやく堪える。事の発端を知らないトリッシュはあっさりと首を縦に振った。
「私が刑事さんといるところ見たみたい。興味津々に訊かれたわ。お気に入りのバーが同じでたまに会うのよね」
ということは、ここしばらくダンテが一人やきもきしていた間にレディはあっさり本人に真相を聞きだしていたのである。第三者の余裕か女同士の気軽さか、いずれにしろダンテは彼女らに置いていかれていたわけだ。
男は一人脱力し、天を仰いだ。
「なんだ…いるじゃねえか『友人』」
言われてすぐには結びつかなかったらしいトリッシュは少しの間を置いて、
「…レディ?」
ダンテと同じく宙に目線を走らせながら首を傾げた。
「あれを友人と言うのかしら?」
「少なくともカモにはされてないだろ。俺と違って」
悲しいかなこれには説得力があったようで彼女も納得したようだった。が、
「そもそも黙ってカモられてるほうもどうかと思うわ」
急にダンテへ矛先が向く。カモられるなんて言葉どこで覚えたんだ、いや俺か、などと思いながらダンテは墓穴を埋めるべく慌てて話を戻すことにした。誰に非難されても涼しい顔をしているこの男にもトリッシュの説教だけはよく効くようにできている。
「それで、うまくいったのか?その捜査は」
「証拠は掴めたみたい。あとは向こうの仕事」
「さすが潜入するのはお前の得意分野だもんな」
「まあね。でも服装に関しては眼鏡があれば完璧だったって言われたけど」
「おいそれ絶対邪まな意味だぞそいつ本当に真面目か?あ」
思わず身を乗り出した勢いでピザに手を突っ込んだダンテにトリッシュは、何を焦ってるのよ、とひとしきり笑っていた。
「ちょっと例の彼、私にも紹介してくれない?」
コーヒーの香りで満たされた『Devil May Cry』の昼下がり。
まるでカフェにでも来ているかのようにカウンターで寛ぐレディとトリッシュが何やら喋っている。
「刑事を脅したら捕まるわよ」
「一言目がそれ?仕事のツテ作りだってば。刑事ならちゃんとした報酬もくれるだろうから」
「そもそも連絡先知らないし」
「はあ!?冗談でしょ、それ本当に友達になる気あった?」
「向こうにはここの番号教えてあるわよ?」
「…だめだわこれ」
レディが呆れた声を出し、いつもの定位置で雑誌を片手に彼女らの会話に耳を傾けていたダンテはふと笑う。しばらく電話は俺が出てやろうかと意地悪も頭に浮かんだ。
「とにかく彼、善人なんだから。カモにされたら私が眠れない」
「あんまり庇うとまた誰かさんが臍曲げるわよ」
外野のつもりで聞き耳を立てていたところに流れ弾が飛んできた気がしてダンテが顔を上げれば、レディがさも愉快そうにこっちを見ている。
「会う人みんなに当たり散らして面倒くさかったんだから。ああ、いつも面倒だけど、いつも以上に」
「おいレディ、いい加減なこと言ってんじゃねえよ」
確かに態度はよくなかったかもしれないが当たり散らしてなどいない。それもレディとモリソンくらいだ。そもそも無駄に煽っていったのは誰だよ、事実を知っても教えに来ないし、などと責任転嫁以外の何物でもないが表情と口パクでダンテが抗議していると、振り向いたトリッシュが席を立ってやって来た。
「ダンテ…ごめんなさい、気付かなかったわ」
真剣な眼差しで見つめられ、ダンテは目を泳がせる。
「あーその、俺は別に、まあちょっと…」
「あなたも友達が欲しかったのね」
「いやそういうことじゃなくて」
反射的に突っ込んでしまったダンテの向こう側でレディが声を上げて笑った。
当のトリッシュはバツが悪そうに頭を掻くダンテをしげしげと眺めていたが、やがて柔らかく微笑んだ。
分かっているのかいないのか、変なところで純粋な彼女だから定かでない。ひょっとしたら今の微笑みは気付いた故かもしれない。そんな気がしたが、ダンテには最早どちらでもよかった。
ただできれば他の男には向けてほしくはないなと、やはり口に出しては言いにくいので心の内でだけ、素直に思うのだった。
(2019.06.26)