あれから
ガン、ガン、と規則的に響いてくる物音に眠りを妨げられ、トリッシュは重い瞼を上げた。
気だるい首を巡らし、目を細めて見上げた窓から差す光、そして肌に触れる空気の温度からして朝の時間帯らしかった。ベッドに入って3・4時間といったところだろうか。夜が明ける頃に眠りにつくのが通常である仕事柄、まだ「早朝」だ。
何かを叩き付けるような、あるいは打ち付けるような音は時折高い金属音が混じる。騒音など珍しくもないスラムの一角でも、それを聞くには早い時間だ。ベッドに身を沈めたまましばらく耳を澄ませていたトリッシュは、視線を横に向ける。
隣で寝ているはずのダンテの姿がないのも妙だった。地震が起きようが雷が鳴ろうが、彼がトリッシュよりも先に起き出ていることなどまずない。ましてや朝も早くに。
二つの疑問が結びつき、どうやらこの極めて近くから聞こえる音の発生源は彼だろうと結論づけてトリッシュは身を起こした。一体何を始めたのか。今のところこの家に修理する箇所はないはずだが、あるいは気まぐれに改修でもしているのか、いずれにしろ普段こんな朝から働く男ではない。
服を着て下へ降りると、やはりダンテの姿は見当たらない。さきほどまで発せられていた音は今は止んでいるが、トリッシュはまっすぐその場所――玄関の外へ向かう。
「よう、ぴったりのタイミングだな」
トリッシュがドアを開けるや否や、青い空を背に立っていたダンテの声が飛んできた。その足元にはいくつかの工具や金属片が転がっている。
「目覚まし時計にしては早すぎるわね」
「思い立ったが吉日ってな」
満足そうに何かを見上げるダンテの隣に並び、トリッシュもその視線を上げた。
「これ…」
「いつまでも無看板にしとくわけにはいかないだろ」
ドアの上、昨日まではなかった店の名がそこにあった。ダンテがネロに看板を譲って、というより送りつけて以来、営業中を示すネオンサインは不在だったのだ。
トリッシュは明らかに何か言いたげに、しかし敢えて何も言わずにダンテの顔を見た。彼女の睨むような視線、そらきたと言わんばかりにちらりと合わせたダンテは、すぐに目を逸らしつつ無言の質問に答える。
「あー、そろそろいいかと思って」
「勝手に決めたの?」
呆れを含んだ、咎める口調。いつもとは違って今回ばかりは「しょうがないわね」では済まなかった。
『Devil Never Cry』
かつて短い期間ではあったが掲げられていた看板が、数年ぶりに日の光を浴びて堂々と立っている。
ダンテは少し決まりが悪そうにしていたが、
「違うぞ、事後承諾だ」
とトリッシュのほうを見て弁明した。
「何が違うのよ」
「善は急げ」
謎の理論をもって言い切る。これの何がどう善なのか、いくら突っ込んだところで要領は得まいとトリッシュは溜息ひとつで追及を諦めた。珍しく先に起きて何かしていたかと思えば、こんな企てとは。意外と計画性がある人間だったと褒めるべきか、それとも子供の悪戯のようだと揶揄するべきか。
およそ20年前にダンテが始めた便利屋、悪魔も泣き出す『Devil May Cry』。マレット島での戦いを経て、トリッシュという相棒を得、店の名前を変えようと言ったのはダンテだった。それからしばらく、ここは『Devil Never Cry』だった。やがて『Devil May Cry』に戻してほしいと言ったのはトリッシュだった。もっと広く人間界を見てみたいと一人で旅し、留守がちになった彼女が頼んだのだ。『Devil Never Cry』は私とあなたの二人がいなければ、と。
それから昨日まで、看板の有無に関わらずこの店は『Devil May Cry』を冠し、ダンテはデスクに陣取り、トリッシュは居たり居なかったりした。
そんないきさつがあって、再び『Devil Never Cry』を掲げるとしたらそれは彼女次第――のはずなのだが。
トリッシュはもう一度見上げた。二丁銃を持つ女性のシルエットは、ダンテいわくお気に入りなのだそうだ。
「この名前は、私にとって特別なの」
『悪魔は泣かない』
彼女が初めて涙を流した時、彼に言われた言葉。そして初めて出来た「家」でもある。トリッシュが人として生きることを選んだ、色んな始まりの象徴がそこにはあった。
「お前だけじゃない」
同じものを見ながらダンテが言う。
後ろに映える青い空は、心の晴れたあの日と等しく澄んでいた。
あれから随分経った。近頃はトリッシュも家に帰っていることが多くなった。この空の遠くフォルトゥナにはネロが営む『Devil May Cry』もできた。
「…そうね。いいかもしれないわ」
「え」
予想外の言葉だったらしいダンテは目を丸くする。
口を半開きにしたまま固まっている彼を見てトリッシュは「鳩に豆鉄砲」とはこういう顔のことかと納得しつつ、さも愉快そうに覗き込んだ。
「勝手に実行しておいてその顔はないんじゃない?」
どこか蠱惑的な笑みを浮かべて問う彼女に対し、ダンテは頭を掻いた。
「いや、まさかそんなにあっさりと…」
「なあにダンテ、怒られたかったの?」
「それだけは勘弁してくれ」
両手を挙げて苦い顔をする。頑丈な肉体と同じく図太い神経を持つ男だが、彼女に母親のように叱られることは到底堪らないらしい。
ふふ、と笑ってトリッシュは大きく伸びをした。あっさり受けなかったらどういう説得を用意していたのか興味がないこともない。もしかしたらもっとごねて、口が達者なぶん肝心な物言いを避ける節がある彼にはっきり言わせればよかったのかもしれない、と今になって思うが、生憎そこまで男女の駆け引きに長けてはいない。
「私は素直なの。誰かと違って」
「否定も肯定もしかねるな、それは…っておい、どこに行くんだ?」
くるりと踵を返して家の反対方向へ向かうトリッシュをダンテは慌てて呼び止めた。
「朝食を買ってくるわ。すぐ帰るから」
と軽くウインクを残し、颯爽と歩いていく。
「…じゃ、このままでいいな」
ひとり呟いて、ダンテは看板を見上げる。「すぐ帰る」なんて今までアテにしたことのない言葉が妙に心地よかった。
その時、ドアの向こうでけたたましく電話が鳴った。
朝っぱらからかかってくる電話なんて十中八九ハズレで出るまでもないが、ダンテは散らばった工具を適当にまとめて放り投げて家の中に入ると、荒々しい動作でデスクの前の椅子に腰を下ろす。
こんな時にかけてきた奴は運がいい。気まぐれな女神の声じゃなくて悪いが、それも今だけだ。
デスクに上げた脚で受話器を蹴り上げるようにして、ダンテは電話をとった。
「デビルネバークライ」
(2017.09.03)