ハーフ・ムーン
たとえば都市伝説と言われる噂、迷信、あるいは不可解な未解決事件といったものにも、実は悪魔が絡んでいることがある。しばらく便利屋「デビルメイクライ」を離れてあちこち飛び回っているトリッシュの目的の大半はそれだった。空振りも多いが、中には魔界の瘴気を発する魔具であったり、影を潜めて人間を狩っていた悪魔に「大当たり」することもある。今回の件のように。
「そう…。そうだったの」
質素でありながら小奇麗な身なりの老婆は、トリッシュの話す奇想天外な顛末に驚きの声をあげることもなく、ゆっくりと頷いた。
「信じるの?」
全く動じることのない彼女の反応に、思わずトリッシュは訊き返した。二十年近くも前、農場主であった夫を惨殺したのは悪魔の仕業だった――そんな結論を告げられて信じる人間などそうそういるはずがない。すべて口頭の説明だけ、示せる証拠など何もない。あるとすればいくつもの禍々しい触手の爪、そして血の色をした巨大な一つの目だったが、それらも断末魔の叫びの後に砂となって消えた。
「人のできることじゃないのは、分かっていたからね。動物だろうと言われたけれど、じゃあ何の動物だって訊くとみんな首を捻って…それで終わり」
ロッキングチェアを揺らし、まるで昔話を語るように穏やかな口調で、ふふ、と品のある笑いを零した。
「それに、こんな年寄り騙したところで何の得にもならないでしょう。長く生きている分、人を見る目はあるつもりなのよ」
数日前に突然「話を聞きたい」と訪ねて来た謎の女を、老婆はまっすぐ見つめた。どちらかというと、身分も名前も理由も語らない、どこか浮世離れした空気を持つこの美しい女が現れたこと自体が非現実的な出来事のようだった。
「その恐ろしい怪物は、もういないのね」
「ええ。跡形も無く」
「そう、よかった。よかったわねえ…」
老婆はテーブルの上に飾っていた写真を手に取り、亡き夫に語りかける。哀しげだけれど安堵したような、懐かしむ眼差し。彼女はこうして二十年、変わらぬ最愛の人を想って生きてきたのだろうか。愛おしそうに写真を撫でるその姿を見ていたトリッシュの口から、不意に言葉が滑り出た。
「…ごめんなさい」
思わぬ言葉を聞いて老婆が目を丸くして顔を上げる。
「おやまあ、どうして?」
そう尋ねられて初めてトリッシュ本人も自分の発した言葉に気がついた。どうして?答えを探すより、慌てて言い繕う。
「私がもっと早く来ていたら」
咄嗟に言い繋いだトリッシュに老婆はあははと笑い、あなたは優しい人だね、と初めて涙を見せた。
もう遅いから泊まっていって、大したお礼はできないけれど、と引き止める老婆の申し出を固辞し、トリッシュは消えるようにその場を去った。日が落ちて久しい空には半分に欠けた月が昇っている。なるべく人気のない方へ、暗い方へと足を進めながら、頭の中では繰り返し同じ疑問を考え続けていた。
『ごめんなさい』
どうしてあんな言葉が出たのだろうか?あの意味はなんだったのだろう?
魔界生まれでありながら故郷を捨て、逆に悪魔を狩ることを生業としたトリッシュには、彼らを同胞と思う気持ちはもはやない。彼らがこの人間界で犯す罪を背負うつもりも毛頭ない。ならば、何に対する謝罪だったのだろう。無意識に出るほど染み付いた理由があるはずなのに、自分で自分が分からず、なんだか無性に腹が立ってくる。
ほとんど闇雲に歩きながら考えを巡らしていたトリッシュだったが、急に足を止めると、辺りに注意を向けた。今は使われていないらしい古びた倉庫がいくつも並ぶ一帯には街灯もなく、月の光だけが青白く降っている。その光の届かない細い通路から、あるいは朽ちた鉄扉の先の闇から、いくつもの気配が集まってきていた。否、臭いと言った方が正しいだろうか。人でも動物でもない、この世界の住人ではないモノの臭いが微かに漂ってくる。
「八つ当たりされに出てきてくれたのかしら?気が利くわね」
腰に差した銃を抜こうと手をかけたが、やめた。そのかわり手足に漲らせた魔力がバチ、と火花を散らす。同士の合図ではない、明らかな敵意を込めた宣戦布告。
一瞬の間を置いて、耳障りな羽音と共に闇からいくつもの影が飛び出した。一抱えほどもある巨大な蝿に似た姿で、固有名などない、ベルゼバブという一山いくらの低級悪魔だ。強いて長所を挙げてやるとすれば飛んでいるため狙い難いところだが、トリッシュにとっては何の弊害もない。まるで蜘蛛の糸にかかるように彼女の放つ電撃に捕らえられ、そこへ強力な拳や蹴りで追い討ちをかけられ次々と散っていく。打撃の勢いそのままに長い手足を駆使して敵の爪を掻い潜り、後ろから、あるいは横から間髪入れずに叩き込む。この程度の雑魚にくれてやるには大袈裟な稲妻が空気を震わせて何度も明滅した。
「おしまい?手応えがなさすぎて余計にストレス溜まるじゃない」
最後と思しき一匹を踏みつけたまま、トリッシュは長い金髪をかき上げる。もとより勝負になるわけがなかった。かつて魔界にいた頃の立場ならばいくらでも顎で使えるような「消耗品」だ。文字通り虫の息でギギ、と鳴いたそれを思い切り踏み抜くと、血ではない何かが飛び散った。
「随分荒れてるな」
前方から唐突に男の声がして、トリッシュは視線を向ける。身構える暇もなかったが、聞いた瞬間からその必要がないことは分かっていた。
「どうしてここにいるの?ダンテ」
暗い路地から姿を現した赤いコートの男に向かい、驚きの声を隠さずに尋ねた。彼がいるはずの家はここよりずっと西、120マイルはある。いくら狭い業界とはいえ、まさか遭遇するとは夢にも思わない。
「仕事…のはずだったんだが、舞台をとられちまったようだ」
砂と化しつつあるいくつもの残骸を目で指しながらダンテは肩を竦めて見せた。わざわざこんな遠くまで出向いて準備運動のひとつもできなかったというのに、向こうにとっても予想外の邂逅だからかその顔は愉快そうだ。本来ならばこういう依頼を受け持つためにトリッシュは時折出先から連絡をするのだが、そういえばしばらく電話していなかった。顔を合わせるのは一月ぶりくらいだろうか。
「通りすがりに巻き込まれただけ。それで元主役は呑気に観戦?」
「下手に混ざったら蹴り飛ばされそうな剣幕だったからな」
「そこまで無分別じゃないわよ」
電撃の一つ二つは当たったかもしれないけど、などと会話を交わしながら、念のため辺りの気配を探る。どうやらもう何も潜んでいないようだ。「当たり」の依頼とはいえ結局あれっぽっちの小物だけでは、ダンテも拍子抜けだっただろう。
とはいえそれは一流のデビルハンターだからの話だ。二人にとっては単なる害虫駆除であっても、依頼を寄越す一般の人間にとっては十分すぎるほどの脅威だ。あんな雑魚でも悪魔は悪魔、いともたやすく人を殺せる。理由などなく、ただの気まぐれでも。
ふとトリッシュの脳裏に、今日見た光景が次々と浮かんでくる。亡き人の写真を抱く老婆の姿。大きな赤い目の悪魔。つい今の戦い。
「…私もこの中の一つだったかもしれないわね」
音を立てて崩れ去る足元の砂を眺めながら、トリッシュはぽつりと呟いた。
「どういうことだ?そりゃ」
独り言のつもりだったが、ダンテの地獄耳には届いていた。トリッシュは一瞬躊躇ったあと、努めて軽い声音で続ける。
「もしもの話よ。私が今ここにいるのは運がよかっただけで、少し違ったら私もこうして人を襲って、きっとあなたに始末されただろうなって」
実際にダンテを襲撃したかつての自分を思えば容易に想像がつく。絶対主たる魔帝に命じられれば人殺しだろうがなんでもしただろう。それが悪魔というものだ。残念ながら「失敗作」だったせいで、その輪から外れてしまったけれど。
すぐに笑い飛ばすかと思いきや、ダンテが口を開いてから言葉が出るまで少しの間が空いた。
「あー、俺としては異論はあるが、もしもなんて考えたって切りがないぜ。お前らしくもない」
…お前らしくもない。
この世の誰より信頼する相棒に言われて、トリッシュは素直に頷く。
「そうね。自分でもそう思う。でもどうしてかそんな日だったの、今日は」
だから暴れちゃった、と溜息交じりに笑った。
「分からないでもないけどな。俺も似たようなもんだった」
ダンテはそばに放置されている鉄筋の上に腰を下ろした。灰明るい月の下、その光と同じ色の髪が映える。
「あなたはずっとこっち側でしょう?」
「どうだろうな。生まれた時から半分と半分。両方あるけど、どっちかじゃない。人間でもないし悪魔でもないし、名前隠して人に紛れて、見ず知らずの悪魔に名指しで狙われて、俺は何なんだって悩んでた時期もあった」
「本当?想像つかないけど…」
ダンテでもそんな葛藤をしていたのかと、トリッシュは少なからず意外に思った。この数年浅いなりに様々な人間を見てきたが、彼ほど意志が強く、自信に満ちて、己を貫く人間にはまだ出会えていない。
「俺だって若くて甘酸っぱい時代があったんだぞ」
隣に来て座った彼女にダンテは口を尖らせて言う。
「甘酸っぱいかどうかはともかくとして、どうやって答えを見つけたの」
尋ねるトリッシュに対し、そんな大したもんじゃないとダンテは微笑しながら、
「心のままに、ってな。それだけさ」
そう言って自身の胸をトントンと叩いた。
彼の言葉は至極シンプルだが、トリッシュが一番よく知っていることでもあった。悪魔の内に芽生えた心、それが始まり。だからここにいる。
ああ、そうか。
まるでパズルのピースが埋まるかのようにトリッシュは胸の内がひとつに収束していくのを感じた。
――私はきっと、両方に自分を重ねていたんだわ。
「ねえ、私、悩んでるわけじゃないのよ。ただ戸惑っていただけ」
霧が晴れたように思った。ダンテとは少し違うけれど、人と魔と半分ずつ、どちらにも自分の姿を見ていたのだ。それは悪いことじゃないと思えた。心が生きているということなのだから。
ダンテにはトリッシュの「戸惑い」が何のことかよく分からないはずだが、そうか、と言ったきり静かに空を見ていた。いつも無駄口がよく回る男なのに、その沈黙がなぜか心地良い。
トリッシュはちらりと隣を見る。
自らの意思で選んだ道に悩んだことも後悔したこともない。そんなこと考えすらしない。あの日、暗い魂を満たした光がずっと共にあるのだから、迷うことなどあり得なかった。
――私が「人」としてここにあり、生きる原因も理由も全て自分にあるということを、この人は分かっているのだろうか?
高く昇った半月の優しい光が彼の横顔を撫でている。逞しい首筋、直線的に通った顎――いつもトリッシュが見慣れている光景だが、ただひとつ、一月前にはなかったものがあった。
「…無精髭」
トリッシュの短い呟きに、ダンテがあからさまに「しまった」という顔をする。何か言い訳でもしようと口を開きかけたその頬にトリッシュは手を伸ばし、引き寄せられるままに振り向いた彼の薄い唇に己のそれを合わせた。すぐに重ね返してくる感触と、抱き寄せるように背中に回される腕が温かく応える。
額を押し合わせたまま、ありがとう、とトリッシュは言った。
「私はまだまだ経験不足みたい」
「たまには俺を頼ってもいいんだぜ」
「先輩からのアドバイス?」
そうそう、とダンテが得意げに頷いたかと思いきや、不意にトリッシュの身体を囲んでいた腕が不審な動きで彼女のしなやかな曲線を這い回り、
「ま、こっちのほうは大分色々と教えたつもりだけどな」
にやりと笑って再び、さきほどよりも深く唇を塞いでくる。
呆れた。せっかくの良い話をぶち壊すデリカシーのない発言にトリッシュはすぐに胸を押して引き剥がした。
「余計な一言で台無しになったわよ。わかってるの?」
「勉強になったろ?」
悪びれもせず笑う。一体なんの勉強よ、本人はちっとも学習してないくせに、などとトリッシュが小言を浴びせる暇も無く、ダンテはひょいと軽い身のこなしで立ち上がった。
「んじゃ、帰ろうぜ」
そう言って勝手に歩き出す。
トリッシュは帰るとは言っていない。偶々会っただけで、他にもこの地で調べたい件はいくつかあったし、実際まだ戻る予定はなかった。
でもまあいいかと、トリッシュも腰を上げる。
ほんの一日や二日でもあの家に帰って、鳴らない電話を待って他愛無い話をして、いつものピザを食べて、隣で眠って、そんな普通の時を過ごすのもいい――そうしたいと今思っている。だから、そうしよう。
傾き始めた月の下、振り返って呼ぶ声に答え、トリッシュは歩き出した。
(2017.08.01)